PRを通して商品を売るのではなく、売れる商品を創るためのPR。
そんなPRへの思考を持つ創業者で代表の曽原さんは
かつて日本中を熱狂させた「G-SHOCKブーム」の火付け役。
創業時のエピソードから、現在に至るまでの変遷をお伺いしました。
創業のきっかけ
ーーPA Communicationを創業する前は、どんな仕事をされていたのですか?
外資系の広告代理店マッキャンエリクソンでプランナーとして、Coca-ColaやKFC等の食品関係や航空会社のマーケティングや、プロモーションのプランニングを行っていました。
私が当時目指していたのは、PRを通して商品を売れるものにするのではなく、”PRしやすい商品を開発する”という方法論。メディアが取り上げやすい商品を作れば、PRもしやすくなるじゃないですか。
なので、PRを通して売り上げを立てるよりも、売れる商品を企画しPRするという逆の思考で仕事に取り組んでいました。
そんな手法で仕事に取り組む人もいなく、よりクリエイティブで面白い仕事になっているとクライアントからも評価されていました。
ーーやりがいを感じながら仕事されてたんですね。そんな中で独立するきっかけは何だったのでしょうか?
広告代理店では担当する範囲が広告に限られ、ブランド全体の成長支援は会社から評価の対象とはならず、そこに限界を感じて独立することにしました。
「商品企画から関わりブランドそのものの変革に関わりたい」
この想いが、私の事業づくりの始まりです。
ーー独立してからはどんな仕事を手がけていたのですか?
独立して最初に手掛けたのは、G-SHOCKでした。
今でこそアウトドアやスポーツ、ファッションアイテムとして幅広く人気がありますが、当時は日本では全く知名度がない状況。一方アメリカではサーフ系やボーダーファッションのアイテムとして大流行中。そこで、逆輸入という形で日本で流行らせようと思ったんです。
1990年代後半にセレクトショップのUNITED ARROWSとのコラボレーションモデルを私が企画し販売したことをきっかけに「G-SHOCK」ブームが巻き起こります。実はこの「コラボレーション」という言葉、その時はまだ知られた言葉ではなく、このG-SHOCKのコラボがこのワードの原点と言われています。これを機に、世の中で「コラボ」「コラボレーション」という言葉が浸透しますが、その背景もあり私も次々とG-SHOCKのコラボモデルを企画しヒット商品を連発し、会社も急成長しました。
創業初期
ーーPA Communicationを創業してから、最初はどんな仕事をされていましたか?
創業してからしばらくは、G-SHOCKの商品企画やコラボレーションのコンサルや海外での撮影・取材をメインに受けていました。
パリコレでモデルにG-SHOCKをつけてもらってメディア露出を狙うような、海外発の普通の人が発想しない手法を編み出して行動に移していましたね。その頃は年間20回以上は渡航していました。
ーーそこから、どのように事業を展開していったのでしょうか?
2000年には、ファッションに関わる政府の公共事業に取り組みました。
ファッションに関連する若者が集る場をつくることで、そこから仕事につながっていく構想を考えていたんです。
そしてifcaと言う団体を設立し、経済産業省繊維課と共に日本の若手デザイナーの海外進出をサポートする「ネオファッションサポートプロジェクト」を実施していました。
ーーすごいです、行政機関と関わるスケールの仕事をしていたんですね。
はい、そこから日本だけでなく海外へと活動基盤を広げていきました。2002年の日韓ワールドカップのタイミングでは、日韓ファッションフェスティバルを企画しソウルで開催。それ以降、日本のブランドの海外進出にも関わるようになりました。そしてアメリカ大使館の商務省と組み、アメリカブランドの日本上陸を支援するためのショールームを表参道に開設し、事業として展開。また第1回東京ガールズコレクションをifcaが後援するなど、着実に事業領域を拡大していきました。
創業から約10年(2010年〜)
ーー創業されてから10年、会社としてどのような変化がありましたか?
創業10年という節目のタイミングで、PRに絡めてトータルな企画を実施するPRプロデュース部を新設し、社員も増強しました。その結果、大型のPRイベントの受注が急増し、当時入社した社員が今は幹部となっています。
さらに、ファッション&スポーツブランドに特化した、PR視点での商品企画やSNSなど、PRを軸に統合的なコミュニケーション・エージェンシーとしての機能を拡充していきました。
カシオ以外にもReebok、asics、PUMAなどの大手スポーツブランドやZARAなどのグローバルブランドからの受注が拡大しました。
業界特化にすることのメリットは流通や製品に詳しくなる分、より本質的な提案ができるようになること。実績やノウハウも蓄積していくので、より良い手法でのPRが提案できるんです。
転換期の2020年
ーー創業から約20年、2020年は新型コロナウイルスの感染拡大がありましたが影響はありましたか?
大きく影響されましたね。対面での仕事ができなくなったので、ファッションやイベントなど強かった分野の業績が急降下。根幹が無くなってしまったので、事業縮小も考えたタイミングでした。
そこからV字回復できた要因は、今まで強かった領域を捨てたこと。コロナ禍での美容意識の高まりを受けて、美容の領域を広げていったんです。またこのタイミングで、デジタル系のエージェンシーと資本提携。そしてSNSの強化を行い、トータルでPRを担えるような体制を整えていきました。
現在のPA Communication
ーーそして現在に至る訳ですが、会社の方針の変化などはありますか?
今まではPR専門でしたが、それだけでなくSNS、インフルエンサー、イベント、コンテンツ制作など、クリエイティブとブランドをブーストすることをトータルで支援する「Brand Booster Company」として方向転換しています。
また美容ブランドの成長を支援するサービス「Beauty Brand Booster(略称BBB)」を開始し、資生堂、資生堂プロフェッショナル、コーセーなど大手美容企業の案件が増加しました。
そして今年の10月15日からは、韓国発ビューティ&ファッションブランドの日本進出を支援する「K-LINE」をスタート。韓国ブランドが日本市場にスムーズに浸透し、ファンを獲得するための総合的なローカライズマーケティングサービスを提供できるようになりました。
ーー大手案件を手掛けながら、時代に合わせて変遷しているんですね。
そうですね、業種で言えば美容から製薬関連にも範囲が広がりました。またPRだけでなくSNS、コンテンツ、イベントなど幅広く学べる環境です。そして今後も大手や有名企業と、代理店を挟まずに直取引を続けていきたいと考えています。裁量も大きいので、得られることが多いと思いますよ。