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Wantedly Journal | 仕事でココロオドルってなんだろう?

Special

目の見えない人のために声で読み続けて半世紀。78歳の図書音訳ボランティアが本を読み続けることを決めた日。

文字を声に変え、視覚障害者と世界をつなぐ(前編)

2016/09/26

音訳ボランティアとして活動する新井曉美さん、78歳。「音訳?」と聞きなれない言葉に戸惑った人もいるかもしれませんね。音訳とは、視覚に障害のある方のために、活字で書かれている書籍や雑誌、広報誌、新聞などの内容を音声化することで、現在、新井さんは横浜市立中央図書館を拠点に、週に2回、1日3時間程度を活動にあてています。

新井さんが音訳を始めたのは大学在学中の1958年。キャリアは既に半世紀を超え、2015年11月にはその功績をたたえ、文部科学大臣から社会教育功労者表彰を受けています。

なぜ50年以上も前に新井さんは音訳と出会い、現在までその活動を続けてきたのでしょうか。その理由を知るために、横浜市立中央図書館の音訳ブースを訪ねました。


将来は声優志望。学校、部活、稽古に明け暮れる日々。

新井さんが自分の声を意識しはじめたのは小学生の頃のこと。授業中に声を出して本を読むと周りから褒められたのがきっかけでした。

わたくしね、声を使うのが好きだったんです。わたくしが本を読むと先生なんかが褒めてくれて、「あなたちょっと残りなさい」なんて言われて、学芸会で歌を歌いなさい、お芝居をやりなさいといったふうに役所(やくどころ)がまわってくるんですよ。スポーツも大好きだったから中学の頃は運動もしていたんですけど、高校では、放送研究会に入って放送劇をやりました。わたくしの学校の研究会では、アナウンスクラブと放送劇のどちらをやるかで分かれるんですけど、「声だけで演技ができるものか!」とか「声だけで表現するのがこの世界だ!」なんて生意気にも部内で論じたりしながら活動していました。わたくしは放送劇をやりました。

新井曉美さん


高校を卒業し、大学に入学すると引き続き放送研究会に所属します。テレビがようやく登場したという時代で、新井さんの夢は、ラジオドラマ(放送劇)を演じる声優になることだったそう。技術を磨くために、大学と並行して声優の学校に通いたいと両親に伝えると、家族全員から大反対されてしまいます。

特に母が厳しくて「(大学に)入ったんだから必ず卒業しなさい。ビリでもいいから卒業しなさい」っていうんです。母のしつけは、学校の勉強と女としての修行を両立をすることでした。学校の勉強に放送研究会、お稽古と本当に忙しかったです。「あんた付き合い悪いわね」ってしょっちゅう女友達に言われてね。デートなんてする暇ありませんでした(笑)。

母は昔の人だから、「いずれあなたは結婚するでしょ。結婚したら子供が生まれて、女としてのたしなみがないとすごく不便、困るはず」と言っていました。今みたいに何でも買えちゃう時代でもないですからね。一通りやりなさいと。それで、お茶、お華、お料理のお稽古に通っていました。忙しかったけど、楽しいのは楽しいですよ。お料理教室なんて、食べ盛りなもので、作ったら食べられるし、帰ったら母の料理が待ってるし、なんてね。ハッハッハ(笑)。

お料理にしてもね、中華料理、フランス料理、和食に日々のお惣菜まで習うんです。自分がプロになろうとは思わなかったけれど、使っている道具にしてもすごい種類。先生が修行の大変さも教えてくださるじゃないですか。半端じゃないなぁと思いながら、自分はどこにいったらいいんだろう、何か声優に活かせることはないかなぁとよく考えました。

連ドラ出演のチャンス到来?!

移動中も常に「あれをやって、その次はこれをやって」と頭をフル回転させて大学時代を過ごしていたという新井さん。それでも、放送研究会の活動に対しては手を抜くことはせず、「声を使うのが好き」という気持ちは、周りにも伝わるほど熱いものでした。それを証明するエピソードとして、新井さんはこんなお話をしてくれました。

中学時代にお世話になった先生から、ある脚本家の方を紹介してもらった縁で、NHKの連続ドラマに出演できることになったんです。自分の役もあって、名前も出ると。脚本家の方からは、「それでうまくいくようだったら劇団に入れてもいいよ」と言ってもらいました。実際にやってみるとすごく面白かった。NHKも今みたいには大きくなかったので、空いた部屋を使ってリハーサルをするんですよ。わたくしが出た劇には労働争議の場面なんかが出てくるので、劇団の人達が集まってきて「ばかやろー!」とかやるわけです。夜8時くらいから始まって夜中の12時とか1時くらいまでやるんですけどね、そうなると帰りは危ないからということで、みんなで車に乗っかって、家の近くで降ろしてもらうことになるんですけど。うちの両親はそれが気に入らないんです。「なんだ、嫁入り前の娘が真夜中ににぎにぎしく帰ってきて」って。父と母のどちらかが仁王立ちして玄関で待ってるんです。「大丈夫?」「遅いな」って毎回言われるんですよ、5回くらいね(笑)。「芸能人なんていけません」って、姉から何からみんなが総反対するんです。「あんたにむいてるわけないでしょ」「できるわけない」「才能はみんなに認めてもらうものなのよ」って。

わたくしが「だって先生がね、いいって言ったもん」と反論しても、「私は認めない」と言うんですよ。それで、「声優を諦めてアナウンス学校に通おうかな、大学も辞める」なんて返したら、「とんでもない!」ってまた怒られて。怒られっぱなしでした(笑)。さすがに、もうだめか、と思って、ちょっと時間が経つのを待つことにしようと脚本家の方に事情を伝えたら「自分の本当にやりたいことがあったら自立しろ」って言われたんです。「卒業してからでも遅くないから。家がそんな状況なら無理。一人で飛び出すわけいかないだろ」と言われてしまって。ついに諦めたんです。

親の反対が導いた音訳との出会い

家族の反対にあい、声優になるという夢を諦めた新井さんは、立ち直れないほどしょげかえっていたそう。そんな娘の姿を見たお父さんが、 新井さんに音訳という新たな世界を教えてくれました。

わたくしのことを見兼ねた父が周りに「うちの娘が〜」とか話をしたんじゃないですか?父の知り合いだった作家の方の紹介で、点字図書館の創立者である本間一夫先生が「図書館で音訳を始めたから、娘さんにやらせてみたら?」と言ってくださったんです。喜んで、即、高田馬場にある図書館まで行きました。本間先生は「すでに(声にまつわる活動を)やっているみたいだから、なんでもいいから1冊読んでごらん」っと言ってくださいました。

日本点字図書館とその前身となる日本盲人図書館は、ともに自らも子供の頃に脳膜炎を患い、失明してしまった本間氏のライフワークとして創立された施設で、日本初の点字図書館でした。新井さんが夢破れて落ち込んでいたまさにその年、1958年に録音図書(音訳テープ)の製作がスタートしたのです。

わたくしは大好きだった童話や、山本有三や島崎藤村の小説を読んだりしました。「こんなに真剣に本というものに取り組んだことはないわ。なんておもしろいんだろう」と思いました。流行った本をバーッと勢いよく読んだことならありましたけど、音訳の場合、一字も読めない字があってはならないわけですよ。昔の本にはルビなんてないですから、全部自分で調べて読んでいかなければいけません。監督やプロデューサーが選んできた本を、編集して、演じる役者なんかとは違って、すべてを自分で演出しなくちゃいけないんです。わたくしが読んだテープを本間先生がお聴きになって、「視覚障害者ってこうだから、もっとこんな風に読んだ方がいいよ」というふうに直にお話してポイントを教えてもらっていました。

音訳が始まったばかりの当時は、読めば読むほど「待っていました」と言わんばかりの反応があり、その中でもアンデルセンの『人魚姫』を音訳した際に、テープを「返したくない」と言い駄々をこねる子供がいるという話を聞いたことが特に印象に残っているそうです。

今はね、リクエストのあるものを中心に足りないとされているものを読んでいます。当時はリクエストなんてなく、わたくしが勝手に読んでたの。本も何もありませんでしたから、リクエストなんてできる時代じゃなかったんです。図書館に「テープを返さない子がいるんだけどどうしよう」という電話がかかてきたときは、「こんなにみんなが読んでほしいと思っているんだ。目が見えないってそういうことなんだ」って思いました。どんな著者が書いたのかというところから読んでいくわけですけど、それを探求するのがおもしろくて、「私、むいてるかもしれない」なんてね。

心に火をつけた、ハンセン病患者からの「ありがとう」

新井さんが現在まで活動を続けることになった大きな出来事のひとつ、それはハンセン病の療養所を訪れたことでした。清瀬にあるハンセン病療養所へ出向き、患者とふれあい、どんな本を求めているのかを聞いてくるように依頼されたのです。

初めて生で見たんです、ハンセン病の方を。その時代の若者ですから、みなさんがどんな感じなのかも知らずに行ったので「ドカン」と心にきました。こんな世界に住んでいる方がいるんだって。まず、外科の先生から「これから会う方は治っています。安心してください。ひとつの部屋で同じ座布団を使ってお話を聞きますよ」と説明を受けました。お座敷で10名くらいの方にお会いして、どんなお話ができるかなと思っていたら、「ありがとうございます」から始まるんですよ。ハンセン病は失明してしまうこともあるので、療養所に入られた時点では点字で本を読まれる方もいますが、そこから症状が進むにつれて、手でページをめくることさえできなくなってしまうんです。

ハンセン病患者の症状の様子を表現する新井さん。
それまでは明るい表情で話をしていたのと一変し、目に涙を浮かべる瞬間も。

「声のライブラリーができてから本を聞くことができるようになった。それが本当にうれしい」とおっしゃっていました。みんなで一緒に音訳を聞き、それについて話しあえるのがすごく楽しいんですって。「どんな本を読んだらいいですか?」と尋ねましたら、「外の世界のことが知りたい」と返ってきました。わたくしはこんなにもいろんなことやらせてもらって、それなのにあれが嫌だの、これがやりたいだの言ってきたのに。考え込んじゃいましたね。その体験から何も言わずに「いっぱい本を読んであげるんだ」って誓ったんです。それからは次から次へ本を読んで、点字図書館で読んだ本の数がトップになったこともあります。


声優になるという夢は叶わなかったものの、「私は自分の声を使うのが好き」という子供の頃の発見を決して無駄にすることなく、音訳ボランティアというジャンルで開花させた新井さん。家族や先輩、先生など、周りの人に気にかけてもらったときには、その気持ちを素直に受け取る。そんな在り方が、新井さんを次々と新しい世界に連れて行ってくれたのでしょう。

後編▶「もうね、お金じゃないんです」。仕事ではなく「活動」をして生きていく。

Interviewee Profiles

新井曉美
音訳ボランティア
1938年生まれ。小学生の頃から本を読み上げるのが得意で、学校の先生から褒められる。高校時代から放送研究会に所属し、声を使う仕事がしたいと放送劇を演じる声優を目指すが、家族の反対にあい断念。大学在学中に父親がつないでくれた縁をきっかけに点字図書館の創立者である本間一夫氏と出会い音訳を始める。結婚、出産を経て、日本赤十字、社会福祉協議会などで音訳に取り組み、平成2年からは横浜市中央図書館を拠点に活動中。2015年社会教育功労者として文部科学大臣から表彰を受ける。78歳になる現在までに読んだ作品は200タイトル以上。
  • Written by

    梶山ひろみ

  • Photo by

    岩本良介

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