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Wantedly Journal | 仕事でココロオドルってなんだろう?

Company

二世に生まれ、使命に生きる。手塚治虫の長女・手塚るみ子が語る“仕事”

「ダメ娘のまま終わりたくない」父との別れを契機に歩みだしたプランニングプロデューサーの道

2017/05/01

『鉄腕アトム』や『ブラック・ジャック』といった名作漫画を多数残した手塚治虫さん。その娘であり、手塚プロダクションの取締役を務める手塚るみ子さんにお話を伺っています。前編では、プランニングプロデューサーとしていかに手塚作品を後世の残していくかというビジョンを話していただきました。

前編▶︎“新たな手塚治虫”は二次創作から生み出す−−−後世に受け入れられるプロデュース術とは

後編では、有名漫画家の娘として生まれたことの楽しさと葛藤、父との別れ、そして手塚治虫作品のプロデュースを始めるに至るまで…その怒涛の人生を辿ります。

手塚治虫の娘に生まれて…

−漫画家の家に生まれるという奇特な環境の中で、るみ子さんは幼少期どのようなものに関心を持っていたのですか?

「やはり物心つく前から漫画には親しんでいましたよ。なにせ週刊誌も単行本もひっきりなしに送られてくるもので、常に漫画が家にあふれている状態で。『衣・食・住・漫画』みたいな家だったので、自然と自分も絵をまねして描いてみたりして」

−少女漫画も読んでいたのでしょうか。

「それも送られてくるんですよ! りぼん、マーガレット、月刊、週刊…いつ届いているのかよくわからないんですが、常にありましたからずっと読んでいましたね。そうしているうちに、小学校高学年くらいから “自分の好きな漫画” というのができてきて。中学に入ってから、吉田まゆみさんや土田よしこさんの漫画を初めて自分で買いました」

−手塚治虫さんは、多忙な中でも家族サービスを欠かさなかったそうですね。

「はい。旅行に連れて行ってくれたり、クリスマスには必ず一緒に食事をしたりと寂しい思いは全然しませんでした。でも思春期の頃は二世にありがちな悩みも経験しましたよ。私は小学校から大学までエスカレーター式だったのですが、中学や高校に進級するときに新しい生徒が入ってくると『どうやら手塚治虫の娘がいるらしい』と噂されてしまって。隣の教室なのにわざわざ見にきたりとか、何かのきっかけで知り合いになるとサインくれとか言われて、そういう物珍しさで自分を見られるのがすごくいやでした」

−そういった出来事がお父さんへの反発につながるようなことはなかったのでしょうか?

「それはなかったですね。父のことは大好きだったので。これも有名人の子供にありがちなコンプレックスなのですが、『私は私よ』という気持ちとは別に、『すごく立派な、尊敬している親に認められたい』という気持ちもどこかに抱いているものなんです。お前よくやったなと言われたい。いつ、それが明確になったかと言えば、ずっとどこかしら父に対する憧れを抱いていたんです。なので、たとえば吹奏楽部で演奏して父がほめてくれたときはすごく嬉しかったし…父に対して反骨精神が向いたことはありませんでしたね。ただ単純にクラスメイトから『手塚先生の娘さんだ』って見られると、曲解されているように思えて。思春期は自我が芽生えるころですから」

業界に入って知る「手塚治虫」

大学を卒業後は広告代理店へと入社したるみ子さん。マスコミ業界に進んだのは、やはり父・手塚治虫の影響も大きかったと言います。

−イベント系の進路を志望したきっかけはあるのでしょうか?

「当時学園祭の実行委員長をやっていて、イベントを仕切ることに楽しさを見出していました。要するにお祭り好きだったんですよね。自分が好きと思うことに対して、みんなで作り上げていく過程が楽しくて。なので広告代理店だけでなく、テレビ局なども同時に志望していました。

加えてその頃はバブル真っ只中で、糸井重里さんのコピーがヒットしていたセゾングループをはじめ、いろんな企業が店頭イベントにものすごくお金をかけられる頃でもあって、イベント事業や博覧会事業が大ブームでした。その華やかさに惹かれたというのもあります。ただ、今でこそわかりますが、それはお金ありきなんですけどね…。当時はその『金ありき』という部分がよくわかっていなかったように思います」

−マスコミ業界は今でもかなりの狭き門ですが、当時を振り返って思い出はありますか?

「当時も本当に狭き門でしたよ。そして縁故がかなり大きい要素だったんですよね。その人を取ることでどれだけ人脈がついてくるのかということが大きくて。次に頭の良さ。いくらスポンサーやクライアントの息子でも頭が悪くては困りますから、最初に筆記試験で落とすんです。

私は就活においてもやはり“手塚治虫の娘”として見られたくないという思いがあって、父の名前は出すまいと意固地になってやっていたのですが、あまりに落ちていくものなので最後は相談に乗ってもらいました。父は『制作会社』の存在も知らなかった私にいろいろと業界のことを教えてくれましたし、当時はコネ入社も珍しくなく、父は日本テレビさんの『24時間テレビ 愛は地球を救う』で仕事をしていましたので、あそこは大丈夫だろうなんて言ってOB紹介もしていただいたりして。まあ見事に筆記試験で落ちましたけど(笑)。父が夜中に取締役に『なんでですか!』と電話したところ、『いやあ試験の結果がね…』と言われて、父が恥をかいたなんていうエピソードもありました」

−そこはシビアだったんですね…! 代理店に勤めていた頃は、ハードな生活だったのでしょうか。

「営業の部署などであればもっと違ったかもしれませんが、私のいた事業部では毎晩接待で飲むなんてこともなく、比較的落ち着いて仕事ができました。もちろんイベント前は忙しくて、帰りは連日終電ということもありましたが、元々現場が大好きでしたし苦痛ではなかったですね」

−手塚治虫さんと近しい業界でお仕事を始められたわけですが、そこからお父さまとの付き合い方に変化は起こりましたか?

「どうでしょうか。ですが、手塚治虫という作家がどういうものか知らずに育っているので、社会に出て手塚治虫の存在感や、この作品がどう社会に影響しているかということを現実的に感じるようになりました。それは代理店にいるいろんな方から教えられることもあるし、漫画を原作としたアニメがどうやって成り立っていくかというのを知る中で、手塚治虫は結構な作家なんじゃないかというのがちょっとずつわかってきたという感じで。

いろんな方から『手塚治虫の娘だったら何かやらないか』と声がかかったり、『手塚先生に仕事をお願いしてほしい』と頼まれたりして、この業界でプランナーとしてやっていくならば、この先手塚治虫を使うことが出てくるだろうというのが、よりリアリティを持って見えてきたんです。それまで漠然とした憧れだったのが、代理店に入ってようやく手塚治虫というコンテンツがすごく具体的に見えてきた。その矢先に、亡くなってしまったんですよ」

−先ほどおっしゃっていた「お父さんに認められたい」という気持ちは、ある意味お父さんが亡くなったときに顕現したと言えるのでしょうか。

「そうですね。父がそんなに早く亡くなると思っていなかったので、いつか一緒に仕事ができれば良いという漠然とした気持ちでいたので。ダメ娘のままで終わりたくないという焦りが生まれました」

仕事ではなく「使命」

−るみ子さんにとって、仕事とはずばりなんでしょうか?

「働いているとか、仕事とかいう意識が全くないんですよね。仕事とプライベートの境目を感じていなくて。普通は働いてその対価として金銭をもらって生活するのが当たり前だと思うのですが、私のやっていることは父親ありきで、金銭は父の作品の対価として生じているものなんですよね。自分としてはただ『父の作品を後世に残したい』という思いだけで。

仕事というより、使命なんです」

−なるほど。では代理店時代は「仕事」という感覚をお持ちだったのでしょうか?

「それが、代理店にいるときも“雇われている”という意識はなかったんですよね…。そもそも就活のときに代理店を志望した動機が『0から何かを作り出してみたい』というところにあるので、結局自分が主体になっているんです。父が亡くなって間も無く代理店は退職してしまいましたが、今思えばもう少し組織に所属して、ネットワークを広げたり、ビジネスの構築の仕方を学んでもよかったなあと」

−現在の「使命」をプレッシャーに感じることはないのでしょうか。

「私は、親を知ることは自分を知ることにもなると思っているので、今の仕事は腑に落ちています。でも同じく二世として使命を背負った人の中には、なかなか割り切れないで悩んでいる方もいらっしゃいますよ。

実は漫画家の二世のみんなで定期的に集まって飲み会をしていて。通称『二世会』、別名を『犠牲者の会』って言うんですけど(笑)。漫画家や、あと音楽家の子供もそうだと思うのですが、遺された作品に対して『これをこの世で終わらせたらまずいだろう』という気持ちになるんですが、それにどう取り組んでいくかと考えたときに、 “自分の人生” とはなんだろうという壁にぶつかる。親が生きている間は親の人生と自分の人生は分離しているのだけれど、親が死ぬと急にそれが覆いかぶさってくるんですよ。私みたいに、“やりたいこと” と “遺族としての使命” がたまたま重なれば自然と受け入れられるんですが。二世としての人生は、割り切れるか、しぶしぶその道に行くかで大きく変わってくるものなんです」

手塚イズムを後世に

2018年、手塚治虫生誕90周年をむかえる手塚プロダクション。2017年春にはNHK総合テレビでTVアニメ『アトム ザ・ビギニング』の放映がスタートしました。

−90周年ではほかにもいろいろな取り組みがあるのでしょうか?

「いろんなプロジェクトが動いていますが、これから徐々に発表してゆきます。アニメ『アトム ザ・ビギニング』からもまた事業が広がって行くかと思いますし、個人的にも相変わらずマイペースにやっていけたらなと」

−『アトム ザ・ビギニング』は鉄腕アトム誕生までのストーリーを描いたものですよね。すごく楽しみです。手塚作品が現在も支持され続けているのにはどのような理由があると思いますか。

「今の漫画は複雑なものが多いので、手塚作品のシンプルさがかえって際立つのかもしれないですね。もちろん『火の鳥』のように複雑なものもあるのですが、鉄腕アトムはすごくシンプルですし」

−前はわからなかったことが、大人になってから読んでみるとすんなり読めるということもしばしばありますよね。

「そうですね。年齢ごとに読む作品や読みがいが変わるのが手塚作品の魅力で、そういった楽しみ方に対応できる作品数がありますしバラエティも豊富です」

−「手塚イズム」にはいろいろな解釈があると思うのですが、今の10〜20代の中にある「手塚イズム」とはどのようなものなのでしょう。

「難しいですね。今の若い方にとっては“ファースト手塚”が、小学校の図書室で手塚作品に触れるか、ご家庭のお父様お母様が手塚ファンでおうちに作品がありました、の2種類なんです。今の子は本屋で本を買うということがあまりないみたいなので。その中で彼らがどんな手塚イズムを感じてくれているか、わからないですが、もしかしたらまだイズムと言えるものは生まれていないかもしれません」

−90周年のイベントを契機に、また若い人の関心が集まるかもしれないですね。その先の100周年などはもう見据えていらっしゃいますか?

「誰かやってくれたらいいんですけどね…(笑)」

るみ子さんからお話を伺う中で、るみ子さんから父・治虫さんへの向けられた親愛や尊敬を幾度となく感じ、名実ともに親子の絆が手塚作品を支えてきたのだということを実感しました。そして、るみ子さんが『ブラック・ジャック』のキャラクター・ピノコのモデルであることは情報としては知っていたのですが、実際にるみ子さんの笑顔を見て本当に似ていらっしゃることにびっくり。手塚治虫さんが原稿と向き合っていた長い時間、ペンの先にるみ子さんを描いていたのだと思うと、るみ子さんが人生をかけて守ろうとしているものがなんなのか、理解できたような気がするのです。

プロデューサーとして、そして娘として、手塚るみ子さんが今後どのようなイベントを世の中に仕掛けていくのか、今後の動向に注目です。

Interviewee Profiles

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手塚るみ子
プランニングプロデューサー。手塚プロダクション取締役。手塚治虫文化祭(キチムシ)実行委員長。漫画家・手塚治虫の長女として生まれる。広告代理店でセールスプロモーションやイベント企画に携わったのち、父親の死をきっかけに手塚作品のプロデュース活動を開始。アトム生誕40周年を記念した「私のアトム展」をはじめとする各種イベントや、朝日放送創立50周年キャンペーン「ガラスの地球を救え」年間イメージソングのプロデュースなど幅広く手がける。また音楽レーベル「MUSIC ROBITA」を設立し、2003年の「鉄腕アトム」生誕にあわせたトリビュートCD「Electric-Brain feat. ASTROBOY」といった手塚作品の音楽企画も制作。

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