私の人生紹介「失った時間と、取り戻した時間」
上海での生活。失った1度目の時間。
私は中国籍の両親のもとに中国の上海市で生まれました。
両親からの愛情で、いわゆる"御三家"と呼ばれる公立小学校に通い、物理的には恵まれた環境にいました。でも、毎日同じ宿題、同じ生活の繰り返し。寝て起きて、学校に行き、居残りをして、宿題をやって寝る。父は単身赴任で中国国内を飛び回っていて、家にいるときも「知らないおじさん」のような存在でした。
母方の親戚が代わりに面倒を見てくれましたが、過保護な環境がいつしか当たり前になっていった。自分で何かを選んだことも、決めたことも、一度もなかった。
幼稚園の七夕で、短冊に「アメリカのディズニーに行きたい」と書いたことを覚えています。家族で楽しそうな場所に行きたかった。それが当時の唯一の夢らしい夢でした。
なぜか、死について考えるようになった時期がありました。「このままの生活で死ぬのが嫌だ、怖い」。子どもながらに強い閉塞感を覚えていました。
小学校1年生から4年生まで、毎年夏休みに父の単身赴任先である日本を訪れていました。子どもが一人で街を歩いている。街が綺麗。空気が美味しい。中国とは全く違う景色に、毎年わくわくしていました。
そして小学校4年生の終わり、日本への移住が決まりました。
今のタイムループのような環境から抜け出せる。そう思いました。
日本へのわくわく。そして、言葉の壁。
10歳で日本に来たときの第一印象は、「すごい綺麗な国だ」ということ。見るもの全てが新しくて、驚きの連続でした。ずっと夢だったディズニーランドにも行けた。わくわくが止まらなかった。
日本語がわからないまま、転校手続きが完了しました。いい小学校、いい担任の先生。頑張ろうと思えました。区が用意してくれた中国語と日本語のフォローの方が補講をしてくれる環境も整っていました。
転校初日、クラスのみんなが興味津々で寄ってきてくれました。言葉は通じないけど、ひたすらじゃんけんをして遊んだ。新しい生活が楽しみになった日でした。
二日目から、だんだん距離ができました。
日本語の問題だと思いました。一生懸命勉強しました。でも、言葉を覚えても解決しなかった。ちょっかいや喧嘩が日常になり、休憩中にクラスメイトが通路で私の邪魔をして、無理やり通ろうとして喧嘩になったこともあります。「じゃま、どいて」を必死に伝えていた。自分にも間違っているところがあると、認めたくなかった。
存在をアピールすると嫌がられる。転校生なのに、なんで受け入れてくれないのかと、我儘にも思っていました。
担任の先生に相談しました。「なんで私がこんな仕打ちばかり受けるのか。どうやって解決できるか」と。先生の答えは「自分で解決してみる」。当時は「相談しているのに、なんでそんなこと言うの」と思いました。でも、その言葉が後の自分を変えることになります。
両親に心配をかけたくなかった。本当は「大丈夫だよ」と抱きしめてほしかった。でも、言えなかった。大きくなってから、隠し通せないときは「そういうこともあったよ」と笑って誤魔化していました。
小学校の転入2日目から卒業まで、基本的に一人で過ごしていました。打ち解けることができずに卒業しました。
中国にいたときは友達が多い方だった。人気者キャラだった。それが、言葉と文化が変わるだけで、何もかもが通用しなくなった。今まで自信があった時期から、しんどい時期に変わりました。
転校生が教えてくれたこと。仮説と検証。
中学校に入っても、最初は同じことの繰り返しでした。クラスで打ち解けることができずにいた。担任の先生の「みんな違って、みんないい」という言葉は好きでしたが、一人ひとりが個々の長所と短所を理解し合える世界だったら、戦争も犯罪もないのにと思っていました。現実ではその理想が機能していなかった。
ストレスは限界に達していました。万引きをしてしまい、警察に補導されました。欲しいものがあったわけではない。「今の自分の感情の大変さを、誰かに気づいてほしかった」。それが本当の理由でした。父に午後から夜まで散々殴られました。自分の心境に気づいてくれない。なんで日本に来たのかと思うようになりました。
でも、転機が来ます。
中学2年生のとき、転校生のHさんが来たのです。Hさんはすぐにみんなと仲良くなり、そしてみんなから避けられている僕にも手を差し伸べてくれた。
「なぜ、この人は自分を知ろうとしてくれたのだろう。」
そのとき、一つの仮説が生まれました。「相手を知ろうとすることで、相手に自分を知ってもらうきっかけが生まれるのではないか」と。
Hさんの行動を観察して気づいたのは、受け身で「興味を持ってもらう」のを待つのではなく、自分から相手に興味を持ち、相手のいいところを探すこと。そのスタンスが信頼を生むということでした。
この仮説を検証するきっかけになったのが、高校受験のための塾でした。自分から相手を知ろうとする姿勢で関わってみたら、日本で一からの友達がたくさんできた。相手を尊敬できる部分を見つけることが、人と人のコミュニケーションで一番大事なのだと確信しました。
担任の先生からは偏差値40台の男子校を勧められていました。「わたしがそんなところで納得するわけがない」。怒りに近い感情でした。反骨精神で勉強に打ち込み、偏差値60の高校に一般入試で合格。
まぐれかと疑いました。でも、人生で一番嬉しかった瞬間です。努力は報われるんだと初めて思いました。周りの見る目も変わった。
振り返ると、中学時代は失った時間ではあるけれど、失われていなかったら、自分が変わることはできなかった。これからは好きなことをしていこうと思いました。
自分らしさを見つけた高校時代
高校では、人の多様性を尊重する文化の中で、心から信頼できる友人たちに出会いました。中学の塾時代から積み上げてきたコミュニケーションのスタイルが、ここでも通用した。自分から相手に興味を持ち、お互いの尊敬できるところを見つけ合う。あやふやだった価値観が正しかったと自覚できた時期です。
カナダのバンクーバーでホームステイを経験し、海外への興味が芽生えました。「失われた時間を取り戻す。楽しいと思うことをやる」と決めました。
文化祭では映像企画に挑戦。やったことがなかった映像編集に手を挙げ、1年生のクラスで一番の来場者を獲得しました。大人の事情で表彰はされませんでしたが、勉強は大変でも、人の役に立ちたいという思いで夢中になっていた。2年生はコーヒーカップ、3年生は杏仁豆腐の販売。またも大人の事情で歴史に残らなかったけれど、クラスのアイデアメーカーとして確立していきました。
沖縄の修学旅行では、班の自由行動でタクシーをチャーターするという前例のないことを提案。成功して、校外学習担当の先生から「ノウハウを教えてほしい」と言われました。新しいことでみんなと思い出を創れたのは、幸せでした。
卒業のとき、担任の先生への感謝ビデオを制作しました。企画から進行まで1から作り出した、自分の作品です。上映したとき、みんなが涙を流してくれた。今思えばもっといいものが創れたかもしれない。でも、関わった人に想像以上の感動を提供する面白さに改めて気づいた瞬間でした。自分の作品で、人を感動させることができるのか。その問いが、今も自分の中に残っています。
「人に想像以上の感動を提供する面白さ」。その原点は、この高校時代にあります。
今でも大好きなSUPER BEAVERに出会ったのもこの頃です。「どうやったらこんな歌詞を書けるのか、人生何周目?」と思いました。彼らの音楽は、今も私の人生の教科書です。
大学時代。挑戦の連続と、自分にしかできないこと。
大学に入り、国際交流のサークルに入りました。留学生と交流したいというより、レクリエーションが楽しかった。ただ、3年生がいなくなり、口コミの悪化でサークルが潰れてしまった経験から、壊れた印象を再び組み立て直す難しさを学びました。
帰化の申請もこの時期に始めました。日本への恩返しの気持ちと、生活における不便さから決意しました。事務官の方が怖くて、申請が通るか不安でしたが、VRZONEの友達と大阪旅行中に帰化の連絡をいただきました。楽しい時間と嬉しい瞬間が重なることもあるんだと思いました。
アルバイトでは、自分の仮説を様々な場所で検証し続けました。
VR体験施設VRZONE SHINJUKUには、オープニングスタッフとして参加。テーマパークの立ち上げに関われることにわくわくしていました。マニュアル作成、契約社員とアルバイトの折衝、プライベートの飲み会。中国語を活かせる場面もあり、チームメンバーとは今でも定期的に遊ぶ仲です。「アルバイト先も一生の思い出になる存在空間を創る」。その原体験がここにあります。
色んなことを任されるようになり、もっと高い環境で挑戦したいと思いました。他の施設への異動を希望しましたが、セクションマネージャーとのコミュニケーション不足で、退職扱いになってしまった。相談しているつもりで話したのに、退職扱いってなに?と思いました。悔しかった。でも、いただいた色紙で元気をもらい、「伝え方」の大切さを学びました。
teamLab borderlessでは初日に同じポジションで5時間立たされ、続けるか悩みましたが、続けてよかった。VRZONEでの知見を活かし、オペレーションづくりに携わりました。同じ体験とコンセプトでも、初期オープン時の社員の力で集客力が大きく変わることを知りました。
リーバイスでは、最初にトレーナーの社員から「あなたは挨拶から練習しなさい」と言われました。海外のお客様には売れていたけれど、日本の方には売れない。起伏のある日々でしたが、続けていくうちに自分の顧客ができた。「楊さん今日いる?」と店舗で聞かれた瞬間、うきうきしながら出ていきました。副店長と2人で催事を回したときは最高の思い出です。「無理」と言われた中、成功した達成感がありました。
就活支援団体エンカレッジの立ち上げ年にジョインし、組織拡大のための採用に貢献しました。駒澤大学の学生には「学歴的に大手やメガベンチャーは難しい」と自己評価を下げている人が多いという課題がありました。自分自身の就活の失敗談を伝えながら、学生のサポートをする。感謝のLINEをいただいたときは、サポートしてよかったと心から思いました。
就職活動では100社ほど応募しました。企業と話すのは楽しかったけれど、長期インターンを経験しなかったことに後悔もありました。5社から内定をいただきましたが、国籍やコロナの影響で最終的に残ったのは日本マクドナルドのみ。オファー面談で「中国籍だと厳しい」と言われたこともあります。国籍で判断されるのは仕方ない部分もありますが、日本の課題だと感じました。
今までの経験を活かして、自分にしかできない挑戦は何かを考え続けた大学時代でした。
社会人として。現場で学んだこと。
マクドナルドの店舗マネージャーとしてキャリアをスタートしました。
配属先は社員2人で回していた店舗。年齢も国籍も異なるチームメンバーと向き合う日々でした。海外のクルーが全体の約70%を占め、サービスの質やモチベーションに課題がありました。でも、一人ひとりの潜在的なニーズを引き出してみると、「日本語の勉強がしたい」という声が見えてきた。その子をキッチンからフロントに移す。配置を変えるだけで、人は輝きだす。「人材育成」という言葉の意味を実感として理解した時期です。
人思いな店長と先輩のもとで、人材育成を学べると自信を持ちました。未経験の社員として何をすべきかを考えるようになり、クルーを巻き込みながら店舗環境を成長させていった。大やけどをしたり、ハサミで指の血管を切ってしまったり、ドジな面も出ましたが、毎日同じ景色ではなく、クオリティの進化を感じられる日々が楽しかった。
しかし、大学生のときからマクドナルドで人材育成に情熱を注いでいた尊敬する先輩が離職してしまいます。人材育成は業務全体の20%のウェイトで、100%打ち込める環境ではなかったからです。その後、店長が異動になり、考え方が正反対の新しい店長が着任。陰湿な仕打ちを受けるようになりました。築き上げた実績や関係が簡単に壊れていく。エリアマネージャーに相談しても具体的なアクションはなく、パニック障害を患ってしまいました。
好きな会社だからこそ、「この合わない店長でも店長になれるのか」という残念な気持ちがありました。休職後に仲のいい友達が打ち明けてくれました。「顔色がやばかった。魂が抜けていた」と。
人事やキャリアアドバイザーへの転職を試みましたが、「営業経験がない」「理想論だ」とお見送りが続きました。そんな中、内定をいただいた企業では「元中国人だろ」と内定取消しになり、エージェントさんから今までにない謝罪をされました。悔しさしかなかったです。
その後、採用を学べるスクールに出会い、自分の思いに共感してくれる環境で5ヶ月間学びました。コールセンターの業務では、相性の悪い社員に認められるために、その人が苦手なポイントを自分がカバーする形で努力しました。来店アポイントの個人KPIを無理に獲得してもブランド価値にはつながらない。真の来店率で勝負したいと思っていました。
直近ではマンスリーマンション事業で、パートナー企業との新規開拓を担当しました。「楊さんとだから契約をする」と言っていただける、利他な取引を心がけました。Re就活のプロジェクトメンバーにもなりましたが、新しい施策は何一つ通らず、悔しかった。限られた中で頑張ろうとも思いました。
しかし、決済者が自分の考えだけで動き、MVV(ミッション・ビジョン・バリュー)で動いていない人が多い組織であると感じるようになりました。生計に関わるお金の誤入金が発生した際、先に返金するのではなく、社内の始末書や申請の決済が優先される。その対応に強い違和感を覚え、即退職を決意しました。ご迷惑をおかけしている業務委託の方に最速で正しいお金をお返しする方法は、自分が退職することだと決心しました。
これからの自分
泣きそうになるときに音楽が支えてくれました。馬鹿にされても自分らしく、理不尽にあっても気にしない心はわかっている。でも、気にしてしまう。人間関係で壊れ続ける情けなさと悔しさに何度も負けそうになりました。
でも、世界を一人旅して気づいたことがあります。台湾、オーストラリア、ハワイ。ニュースがやっている表面ではなく、自分の目で真実を確かめることが大事だということ。オーストラリアではサービス業が正当に評価される制度があり、ハワイではアメリカの自由と課題の共存を目の当たりにしました。
47都道府県を制覇したのも、小学生のときから日本の景色が好きだったから。この国に育ててもらった恩を返したい。その思いは、キャリアのどん底にいるときでも変わりませんでした。
上海での10年間は「失った時間」だったかもしれない。でも、日本に来て、孤立して、転校生に救われて、仮説を立てて、検証して、人に影響を与えられるようになった。失った時間があったからこそ、取り戻そうとする力が生まれた。
個人のスキルがチームに、チームのスキルが企業の成長価値になり、企業に貢献することで日本に恩返しができる。そう信じています。
すべての根っこにあるのは、人と人が向き合うこと。それだけで、すべてが変わると信じています。