1
/
5

私とコンピューター、そしてテクノロジー

幼少期

 幼少期、まだ一部の企業でようやくメインフレームとワークステーションが導入され、COBOLによって実装された基幹システムが国内で動き出した頃、コンピューターは私にとって遠い存在でした。
 しかし、忘れもしないあの日、幼稚園に入ってすぐの1986年4月25日、私は友人の家に招かれました。
 そこには、しばしばTVのCMで見かけるファミリーコンピューターの本体が、そう、ファミコンが彼の家の居間には鎮座していました。

 友人が自慢げにファミコンの電源をオンにすると、それまで、私が聞いた事がない不思議な音楽が流れ始めました。
 幼少期から聞いていたクラシック音楽でもないし、幼稚園で教わった賛美歌のようでもない、そして、気分が高揚する斬新な音楽。
 そして画面には宇宙空間を駆け抜けて行く戦闘機……私は今でもその姿が忘れられません。
 そう、詳しい方はご存知でしょうがそれはファミコン版のグラディウスでした。
 ドット絵で描かれた世界でありながらも、私はその画面を眺めるだけで、本当に宇宙を旅しているかのような体験を得られると言う事実に直面し、コンピューターと言う物に強く惹かれたのでした。

 ソフトウェアを作りたい。
 自分の作った物を世に送り出したい。
 その思いは強かったものの、当時はマイコンもMSXも高嶺の花であり、高校に入り中古のマシンを友人から借りるまで、その思いは適いませんでした。

転機

 高校に入り、転機が訪れました。
 長い付き合いの友人から「古いwin95マシンだが暫く貸しても良い」と打診があったのです。

 HTML、Javascript、Perl、PHPと、高校から専門学校を卒業するまでの間に、私は徐々にステップアップしていきました。
 プログラミングのみならず、CGやDTMといった、コンピューターを使った表現技法にも惹かれ、幾つかの作品を残しました。
 何故、web系の言語がメインだったのかと言えば、当時、ちょうどインターネットのサービスが整い始めた黎明期であった事もあり、webサービスを作る事が一つのトレンドだったと言う事情も影響しています。

 こうした経緯もあり、私はその後、銀行系のシステムから企業内製CMS、はたまた証券系基幹システムやECサイトの構築、地図アプリケーション、スマートフォンゲーム等、あらゆる業界でweb系言語のスキルを活用する一方、新たな技術を吸収し、成長していきました。

 ある時は、失敗プロジェクトの建て直しを依頼され、プロジェクトリーダー(実質プロジェクトマネージャー兼企業メンターという重荷でしたが)として10人規模のチームの建て直しとコーチング、元請との納期交渉や予算交渉をしたり、またある時はインフラエンジニア不在のプロジェクトでサーバー環境の構築をサーバールームに篭って行ったりと、様々な経験を積みました。

 しかし、私にはまだやり残した事がありました。

変化

 あるスマートフォンゲームの開発現場で私がデータベースのチューニングをしている最中、隣の席にいたクライアントサイドアプリ担当のAndroidエンジニアが、開発環境上に表示されている蝋燭に灯りをつけようと、設定をONに切り替えた瞬間でした。
 周りの営業マン達は揺れ動く火を見て「素晴らしい!」「君は天才だ!」と大変喜んでいたのです。

 その時、私はあのグラディウスを思い出しました。
 今、仕事ではサーバーサイドで「目に見えない箇所」を処理しているが、私が最初に憧れた物はなんだったのだろうか?

 それから暫くして、私は幾つかのスタートアップ企業の案件に友人経由でジョインし、クライアントサイド或いはスタンドアロンのデスクトップアプリやAndroidアプリの設計開発を行う他、自主的にそういったプロダクトを作るようになりました。
 長らく、作りたくても作る機会に恵まれなかった物を、遂に作り上げる機会を得たのです。
 ここで私はpythonやC#等を学び、実践する機会を得ました。

 サーバーサイドプログラミングという技術は、現代社会において必要不可欠な技術であり、私にとっても10年来の貴重なキャリアであり、これからもそうであり続けるでしょう。

 しかし「自分が作りたい物がある」からこそエンジニア・プログラマー足りえるのも事実です。

 サーバーサイドは勿論、クライアントサイド、スタンドアロンもこなすジェネラリストとして、双方のあらゆる知見を活かして活躍し、自分自身のプロダクトと言えるものを世に送り出す。
 それが今後10年の目標です。