【本田教之】秋葉原の空気が逆転した朝
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秋葉原の駅を出た瞬間、空気がいつもと少し違うと感じた。雑多な音、看板の光、人の流れは変わらないのに、なぜか世界が一秒だけ遅れてついてくるような感覚があった。普段ならただ通り過ぎるはずの街が、まるで何かを見せたがっているように落ち着かない気配をまとっていた。足を止めるほどの違和感ではないけれど、無視して進むには惜しいくらいの微妙なズレだった。私はそのズレの正体を確かめたくなり、目的地とは逆方向へ歩き出した。
曲がり角の先に、古いパーツショップのシャッターがうっすら開いていた。まだ開店時間には遠い。だが、シャッターの隙間から漏れる薄い光に、なぜか吸い寄せられてしまった。覗き込むと、中には無数の基板やチップが棚にびっしりと並んでいて、それらが朝の光を反射しながら静かに輝いていた。合理的に考えればただの在庫だ。しかしそのときは、どれもが自分に語りかけてくる未使用の未来のように見えた。触れたら何かが始まってしまう気さえした。
私は昔から、技術は未来をつくるための道具だと思っていたけれど、この瞬間だけは違って見えた。まだ役割を与えられていない部品たちが、すでに十分な存在感を持っていた。まるで、使われる前からすでに誰かの価値を静かに支えているような気がした。普段は完成品ばかりを見る生活をしていると、こうした「これから」のかたまりに触れることがなくて、完成したものだけが価値を持っていると錯覚してしまう。だが実際には、価値は完成の前にこそ潜んでいるのだと気づいた。
そのことに気づいた瞬間、街全体が別の表情を見せ始めた。通りを歩く人たちも、買い物袋を下げた観光客も、店の準備をしているスタッフも、全員がまだ完成していない何かを抱えて動いているように見えた。仕事もそうだ。成果物ばかり追いかけてしまうけれど、本当は成果の前の段階こそが最もエネルギーが宿る場所で、最もその人らしさが滲み出るところなのだと改めて実感した。未完成であるという状態は弱さではなく、むしろ生まれつつある強さの証だ。
気づけば私は、まったく用事のない方向へ歩き続けていた。スマホを取り出して地図を見ると、本来向かうべき道とは大幅にズレていたが、そのズレが妙に心地よかった。計画通りではない動きをすると、人は予想外の視点をもらえるのだと感じた。いつもなら最短距離を選ぶのに、この日は遠回りが正しいように思えた。むしろ、遠回りしなければ見落してしまう何かが街のそこかしこに散りばめられている気さえした。
朝日がさらに強くなり、基板の並ぶ店のシャッターの隙間の光が消えた。もう覗き込んでも、ただの暗い店内しか見えないかもしれない。それでも、その一瞬の輝きが私の中に残った。未来は完成してから訪れるのではなく、こうした小さな未完成の瞬間に、すでに息を潜めているのだと思った。秋葉原の空気が逆転したように感じたのは、きっと私の視点が反転したからだ。
未来はいつも、まだ名前のついていないものから始まっている。私はその事実を忘れないために、今日はあえて遠回りして帰ろうと決めた。未完成のまま動き続ける自分を肯定するために、そしてまだ光を浴びていない選択肢に少しだけ時間をあげるために。