エスカレーターの乗り方
サインコサインでディレクターをしているこいづかです。
自分のディレクション力を鍛えるべく、日々の生活に紛れている「デザインされたアイデンティティたち」を見つけて、記していこうと思っています。
そのふたつめの日記は、ロンドンで体験したエスカレーターの乗り方のお話です。
ロンドンで地下鉄に乗ろうと、駅の長いエスカレーターに足をかけたそのとき。
後ろの方から「こっちだよ」とでも言うように、見知らぬ貴婦人に右側へ手招きされました。
あわてて左から右に移動しながら、「ああ、大阪と同じか」と頭の中でつぶやきました。
日本だと、東京は左に立つけれど、大阪は右に立つ。ロンドンも車は日本と同じ左側通行なのに、エスカレーターは右に立つらしい。
「なんでこの街は右で、あの街は左なんだろう?」
そう考え出したら、エスカレーターの乗り方にも、その街らしさがにじんでいるように思えてきて、ちょっと調べてみました。
ロンドンが「右に立つ」ようになった理由
ロンドンの地下鉄では、「STAND ON THE RIGHT(右側に立ってください)」という案内が駅のあちこちに掲示されています。右側に立って、急いでいる人が左側を歩いて追い越していく、あの光景です。
この「右に立つ」マナーのルーツは、ロンドンに最初期のエスカレーターが導入されたときまでさかのぼるそうです。エスカレーターの設計上、当時は乗客が左側に押し出されるように降りる構造になっていて、「歩いている人がスムーズに左側から降りられるように、右側に並んでもらおう」と考えられたのが始まりだとされています。
効率よく人をさばくための、実務的な理由から生まれたルールが、今や「イギリスらしいエスカレーターマナー」として世界に知られています。
東京は左、大阪は右──日本のエスカレーター東西問題
一方、日本ではどうでしょうか。
ご存じの通り、首都圏では「左に立って右を空ける」、関西圏では「右に立って左を空ける」というのが、ざっくりとした傾向としてあります。
この東西差にも、いくつかのストーリーがあります。
よく語られるのが、「江戸は侍の町だったから左を歩き、商人の町・大阪は右を歩いた」という逸話です。刀を左腰に差した侍同士がすれ違うときに刀がぶつからないように左側通行になった、という説ですね。一方で、大阪は荷物を右手に持った商人が多く、荷物を守りやすい右側通行になった、というような話がセットで語られます。
歴史的な真偽はさておき、「東は侍、西は商人」というある種のアイデンティティを、そのままエスカレーターにまで持ち込んで説明したくなるあたりに、日本人のストーリーテリング文化を感じます。
実務視点で見ると、関西の「右に立つ」文化の醸成は、1960年代後半の阪急梅田駅のアナウンスが大きいと言われています。高度経済成長で通勤ラッシュが激しくなる中、阪急が「お急ぎの方のために、右側にお立ちください」と呼びかけはじめたこと、ロンドン式の右立ち・左歩きを採り入れたこと、そして右利きの人が立ちながら手すりを掴み続けられるため、右に立つ文化が定着していったそうです。
その後、1970年の大阪万博で世界中から人が集まり、「右に立って左を空ける」乗り方がいよいよ関西一帯に広まっていきます。
一方、東京側は「左に立つ」ことが自然に広がっていったと言われています。車が左側通行であること、右利きが多く右手で手すりを持ちやすいことなど、いくつかの要因が重なりながら、「何となく左に立ち、右を空ける」スタイルが定着していったようです。
手すりを立つ人に使いやすくする関西か、歩く人に使いやすくする関東かの違いということでしょうか。いやいやエスカレーターは歩いちゃだめです、という話は一旦さておき、私個人の考えとしては、立っている人は安定しているので、左側に立っていただき、歩く人は動的で不安定なので、利き手側となる右側の手すりを掴みながら、歩くほうが安全そうと感じました。
「片側を空ける」マナーが映す価値観
ロンドン・東京・大阪に共通しているのは、「急いでいる人のために片側を空ける」という発想です。
・できるだけ早く移動したい人に、通り道を譲る
・自分は立ち止まっているけれど、誰かのスピードを邪魔しないようにする
エスカレーターの片側を空ける行為は、「人に迷惑をかけない」「効率よく流れを作る」といった価値観を、ふるまいとして翻訳したものだとも言えそうです。
一方で、近年は日本でもロンドンでも、「両側に立ってください」「歩かないでください」というアナウンスやキャンペーンが増えています。エスカレーターでの転倒事故が多いことや、実は片側を空けるより両側に立った方が輸送効率が上がる、という調査結果が出てきているためです。
「急いでいる少数の人のために道を空ける」のか、
「全員の安全と効率のために逸る気持ちを抑える」のか。
「何を優先する社会なのか」という価値観がエスカレーターの乗り方に現れているような気がします。
(ちなみにフィリピンのエスカレーターには右側にフットプリントがあって、立ちたくなるデザインになっていました)
お仕事に活かしたい今回の学び
今回のエスカレーター観察を、ブランディングやルールづくりの仕事に引き寄せると、こんな学びがあるなと思いました。
誰のスピードを優先したルールなのか?
急いでいる一部の人なのか、全員の安全なのか。「片側を空ける」マナーは、誰のためのやさしさなのか。
ブランドの運用ルールも、「誰のどんな状態を優先するか」を決めると、見えてくるかもしれません。
なんとなく決めたルールが、いつの間にかアイデンティティに
ロンドンの「右に立つ」は、最初は効率のための実務的な決定でしたが、今や「イギリスらしい秩序正しさ」の象徴として語られている。
ブランドのちょっとした決めごとも、時間が経つと「らしさ」の象徴になり得ます。
ルールは、一度決めたら終わりではなく、価値観のアップデートツールにもなる
安全のために「両側に立ちましょう」と言い出した瞬間、街の価値観が「スピード重視」から「安全重視」へ少しずつシフトしはじめます。ブランドガイドラインも、「変えてはいけない縛り」ではなく、「今どんな価値観を優先しているかをアップデートし続けるツール」として扱いたいところです。
ロンドンで「右側においで」と手招きしてくれたあの貴婦人は、きっと善意で全体の迷惑にならないように私を正しい側に誘導してくれただけなのですが、その一瞬がきっかけで、エスカレーターの上に乗っているたくさんの価値観が見えてきました。
今度どこかの駅でエスカレーターに乗るときには、「この街はいま、何を優先してこのルールを選んでいるんだろう」と少しだけ想像してみようと思います。また何か気づきがあったら、書こうと思います。