大人クラス──静かな午後に、心がほどける瞬間
大人クラス──静かな午後に、心がほどける瞬間
夕方に差しかかる少し前の時間。
大人クラスの教室には、子どもたちの明るい声が去ったあとの、
どこか深呼吸のような静けさが漂っている。
机に向かうのは、長い一日を終えてここへやってきた人々。
会社帰りのスーツ姿の男性、
育児の合間にきた女性、
週に一度だけ絵を描くことを自分に許している年配の方──。
それぞれの人生が重なりながら、
しかし言葉少なに、筆だけが紙の上を静かに旅していく。
その日の中央の席には、一人の女性がいた。
彼女は絵を描きながら、ときどき深く息を吐いていた。
まるで自分の中に溜め込んできた何かを、
色にゆっくりと溶かしているようだった。
パレットには、重ねられた青の層。
濃い青、薄い青、ほとんど白に溶けかけた青。
彼女はそのどれもを、大切にすくい上げては、
紙の上にそっと置いていく。
「今日は青だけで描くんですね」と私が声をかけると、
彼女は少し笑ってこう言った。
「気づいたら、青しか手に取らなくて……
でも不思議と、この色だけで充分な気がしたんです。」
その言葉に、私は静かに頷いた。
大人は理由を探しがちだけれど、
心が選ぶ色には、時として説明はいらない。
しばらくすると、
彼女の青の世界は、ふと柔らかく揺らいだ。
筆の先が迷ったのだろう。
ぎこちない線がひとつ、画面に生まれた。
彼女は少し困った顔で私を見る。
私は言葉を選ばず、ただこう伝えた。
「迷った線も、きっとこの絵の一部ですよ。」
その瞬間、彼女はふっと笑った。
張りつめていた何かがほどけていくように。
すると不思議なことに、
その迷いの線が、作品全体に深い奥行きをもたらしていった。
大人が描く絵には、
子どもにはない“沈黙の重み”がある。
出せなかった言葉、
抱えたままの思い、
胸の奥にしまってきた時間──
そのすべてが、色や形となって現れる。
青い絵の前で彼女は小さく呟いた。
「なんか…ちょっと軽くなりました。」
私はその言葉を聞きながら思った。
アートとは、上手く描くための場所ではなく、
心の重さを一度だけ手放すための、小さな港なのだと。
教室の窓から見える空は、
いつの間にか薄い橙色に変わっていた。
彼女の描いた青と、空の橙が溶け合うように重なり、
誰にも気づかれないまま、
静かな美しさが部屋いっぱいに満ちていった。