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幅広い領域で10事業を運営するベンチャー企業の社長ってどんな人?CEO田中の生態にせまる!

「世の中を、実験しよう」をミッションに幅広い領域で多数の事業を展開するアイザック。高い技術力を持つエンジニアが多数在籍し、スピード感のある事業開発力を強みとしています。そんなアイザックのカルチャーである「100回の議論より、 1回の実験。まずはやってみる」を誰よりも体現しているのが、CEOの田中です。

今回はそんな田中の生態を解き明かすべく、彼がアイザック創業に至るまでのエピソードについて伺ってきました!

田中 和希(代表取締役CEO)
1992年生まれ。慶應義塾大学在学中に休学し、freee株式会社にソフトウェアエンジニアとして入社。その後渡米、Venuespot, Inc.のVP of Engineeringを務め、2015年にアイザックを立ち上げる。プログラミング言語Rubyのコミッターの1人。

はじまりはBOOK OFFで見つけた「こんな世界あるんだ」

ーー大学在学中にエンジニアとしてインターン、渡米してVPoEの経験を積まれているとのことなのですが、もともとIT領域や起業に興味が?

田中 和希(以下、田中):初めてITや起業に興味をもったのは中学生のときに当時通っていたBOOK OFFでホームページ制作やSEOの本が目に留まったのが きっかけでした。

ーー 中学生がSEOに興味を…?

田中:もちろん最初は漫画を立ち読みすることが目的だったんですが(笑)、ちょうど3年弱頑張っていたサッカー部を引退して時間があって、次に熱中できることを探していたんですよね。漫画も読み終えて店内をウロウロしていたときになんとなく「ホームページ制作・アドセンス」というワードが目に留まって、手に取って少し読んでみると「こんな世界があるんだ」と興味が湧いたんです。

ーー プログラミングもそこで興味を持ったんですか?

田中:そうですね。ブログサイトを作るにはプログラミングが必要で、HTMLやJavascript入門から読み始めました。中学生にとって広告費でお金稼げるというのが衝撃的すぎて、ブログでお小遣いを得る面白さからプログラミングにどんどんハマっていき、Webでのプロダクト開発をやるようになりました。当時のSEOはやりたい放題でめっちゃハックできたんですよね。

ーー 田中さんの世代(1992年生まれ)だと、ちょうど中高生くらいのときに自分のホームページを作るみたいなのが流行っていませんでした?

田中:めちゃくちゃ流行ってましたよね、懐かしい…!前略プロフィールとかもはや自分で作ってイキってました。今考えるとだいぶイタいです(笑)。「前略プロフィール?俺はtanaka-kazuki.comやぞ」みたいな。そこに麻雀の解説サイトを作って掲載していて、ブラウザ上で動く簡単なゲームをつけたり、機能をリッチにしてみたり色々試していました。

tanaka-kazuki.com は流石に中二病過ぎたなと懐古する田中


ーー いまのアイザックのカルチャーである「まずやってみる」をその頃から体現されてますね!他に「まずやってみた」エピソードはありますか?

田中:高校生の時にリーマンショックが起きて、株が暴落していたときに、たまたまおばあちゃんが生前贈与でまとまったお金を渡ししてくれたということがあって、「下がってるなら買えばいいじゃん」とそれを一旦全部株にぶっ込んでみたことがあります。そのあたりから株や経営にも興味を持ち始めましたね。

学校が終わって株価をみたら持っていた株の株価が0円になっていて(JALの経営破綻)、視界がグニャ〜てなったのをよく覚えています。

あとは料理インスタグラマーを目指してフォロワー2万まで伸ばしたとか。 https://www.instagram.com/cooking_tanaka/

基本的に新しいことに対する「やってみよう」のハードルが低いかもしれないですね。

すべては東京にある、満を持して上京

ーー 田中さんは長野県出身とのことですが、大学で上京したのはやっぱり起業や経営に興味を持ったのがきっかけでしょうか?

田中:そうですね!僕の地元は大学から東京に出る人が半数くらいで、珍しいことではなかったんですが、僕の中でも東京に行かない選択肢はありませんでした。当時は特に上京後の計画があったわけでもなく、ただ東京にすべてがあると思っていて、東京の大学に行ったらなんでもできる、という気持ちで上京しました。

ーー 実際に上京してどうでしたか?

田中:まずは普通に大学生ライフを満喫したかったので、軽音サークルや英語でのディベートサークル、体育会の寮にも入ってアルバイトもしました。ただやっぱり僕にはプログラミングや何かを作ることが何もよりも楽しくて(笑)。その延長で大学生の間に起業したい、という気持ちがどんどん大きくなっていきました。

ーー 起業の計画はあったんでしょうか?

田中:起業するならIT領域で、というのはぼんやりとありました。映画の「ソーシャル・ネットワーク」やスティーブ・ジョブズが出てきたころで、ITかっこいいじゃん、これはITで起業するしかない!としっかり影響されてましたね…(笑)。とはいえいきなり起業に向けて動き出したわけではなく、
プロダクトやサービスを作ることが純粋に好きだったので適当に当たらぬサービスを出していました。

正直最初は合わないと思った、後の共同創業者との出会い

ーー 共同創業者の播口さんとも大学時代に出会ったと聞いています!

田中:播口とは語学のクラスが同じで仲良くなりました。

ーー その時の播口さんの印象は?

田中:播口は当時から目立つ存在で、クラブを貸し切って新人歓迎会をしたり、みんなの中心にいるような感じでした。正直あまり仲良くなれなさそうだな、というのが最初の印象でした(笑)。

ーー そこからなぜ今のような関係になったんでしょうか?

田中:語学の授業が週2回くらいあって会う機会が多かったので自然と仲良くなったのですが、今思い返してみると学校の本屋で偶然会って、意気投合したのがきっかけだった気がします。僕がプログラミングの本を探していたら播口もプログラミングの本を持っていて、「播口もプログラミングとかやるの?」と。

ーー 田中さんの転機はいつも本屋ですね!

田中:そこから一緒に何かプロダクトを作ってみないか、という話しになり、まずは語学のクラスで使うグループチャット「ハロー」を制作しました。それが僕たちの最初のプロダクトです!メンバーを募って、4-5か月の制作期間を経てリリースしました。当時はまだLINEが流行っていなかったので、メーリスにリリースのお知らせを流したら予想以上にバズって、みんなの反応が嬉しかったのを覚えています。

当日リリースした「ハロー」のメンバー。真ん中が播口、その肩に手を置いているのが田中。

LINEがまだギリ流行っていたなかった時代で、授業内グループチャットアプリを作っていた


ただ、作りが甘くハッキングされるポイントが見つかってサービスが炎上してしまい、僕たちの最初のプロダクトはあっけなく終了することとなります…。そこから緩やかにチームも解散していきました。

ーー 一旦チームは解散になるんですね。

田中:それからフィリピンに英語留学に行ったり、個人でサイト制作など受託開発の案件を請け負ったり、新しいことに挑戦していく姿勢は常に持ちながら、大学生活エンジョイモードに突入します。なんですが、ある日また偶然の出会いがあって。

ーー また出会いが…!気になります。

田中:大学3年生のとき、スタバでMacを開いてイキりプログラミングするのにハマっていて(笑)、その日も行きつけの渋谷のスタバでイキりプログラミングをしていました。そこでいきなり、「君すごいコード書けるね」と大人の人に声をかけられて、その方が実はfreeeの社員だったんですよ。インターンをやってみないかと誘ってもらい、そのままfreeeにインターンとして参加することになります。

時代はシリコンバレー、アメリカの門をたたく

ーー こんな偶然ってあるんですね!freeeでのインターンはどうでしたか?

田中:めちゃくちゃ刺激的で、迷わず大学を休学しました!当時のfreeeはまだ創業間もなくて、元Google、マッキンゼー、SONYとかスーパーエリートたちがマンションの一室で朝から晩まで働いているのを見て衝撃をうけました。これは学校に行ってる場合じゃないなと。社員と同等の裁量を持たせてもらって、1年間freeeでの仕事に熱中しました。めっちゃ楽しかったです。

ーー そのまま社員になろうとは思わなかったんですか?

田中:当時技術顧問として入ってきたTwitterのエンジニアの人が「今はシリコンバレーの時代やで」と言っているのを聞いてまたもや影響され、次はシリコンバレーだと決めてもう1年休学しました。freeeでは一個大きなプロジェクトを完了させて、新しいことに挑戦したくて。このときはアメリカに行けばなんとかなると思っていたので、特に綿密な計画はなかったのですが、アメリカで就職するんだ、という強い気持ちだけで渡米しました。

ーー 上京のときのエピソードと重なりますね…(笑)。それで本当にやってしまうあたり、行動力がありすぎます。

田中:行動力は自分の強みかもしれませんね(笑)。アメリカに到着した次の日から、早速Google、Twitter、Apple社など計8社くらいに履歴書を持って突撃しました。

ーー ええ、取り合ってもらえるんですか?

GAFA本社に履歴書持って、突撃したがそれくらい当時は自信に溢れていた。


田中:いや、全て門前払いで見事に全滅でした…。アメリカンドリーム的なものがあるかと思っていたんですが、ちゃんと申し込んでくださいと言われてしまって(笑)。その経験から証明できるものがないとだめだと思い、1日20時間くらいプログラミングをめちゃくちゃ勉強したり、オープンソースやプロダクトを作る生活が始まりました。何者でもない自分の無力さから発信することの大切さを感じ始めて、ブログ等での発信活動にも力を入れるようになりました。

▼当時の記録を綴ったブログがこちら

ただの技術好き大学生がシリコンバレー凸してfooo↑↑休学してシリコンバレー行けば何かあると思い立ったイマドキ思考停止系大学生の末路をご覧あれblog.gogotanaka.me

新しいプログラミング言語を作りたいという謎の熱意も湧いてHilbertという言語を開発して米国の技術ニュースメディアに取り上げられたりもしてました。


ーー そこから結局どうなったんでしょうか…?

田中:そもそも3カ月の観光ビザしかとっておらず焦っていたのですが、アメリカでしかできないことをやろうとRubyのコミッター(Ruby言語それ自体を開発する人。世界に100人程度しかいない)をやっている人に会いに行ったり、憑りつかれたように毎日コードを書き、なんとかRubyのコミッターになることができました。そこからなんだかんだでカナダで無事ビザを取得し、500 startups出身のスタートアップでの仕事もゲットしました。

カナダでスタートアップCTOを経て帰国、アイザック創業へ

ーー カナダのスタートアップではどんなことをされていたんですか?

田中:10人以下の少数精鋭チームで、スペースの貸し借りができるプラットフォームを開発していました。当時僕は22歳でしたが、メンバーも25-6歳と同年代が多く、同僚も親切で良いチームでした。僕が入社する直前にCTOが退職してそのポジションが空いていて、実質CTOのような形で仕事を任せてもらっていました。

ーー アメリカにきて数か月で今度はカナダのスタートアップでCTO…。目まぐるしい日々ですね

田中:ただちょうど1年くらい働いたころ事業自体が伸び悩んできて、海外で一人で仕事することに疲れてしまって…ホームシックもあったと思います(笑)、一旦帰国して復学することにしました。

ーー 帰国してまた大学に?

田中:復学してからもエンジニアとしての活動は続けていて、また受託開発の案件を受けたり、個人的にプロダクトを作っていたんですが、久しぶりに播口と会って、再び起業への思いが沸き上がってきました。僕がカナダで働いている間に播口は日本で会社を立ち上げていたんですが、そちらを一旦やめることになり、同じタイミングで似たようなことしてるなと(笑)。話しているうちに、二人の経験を合わせて一緒に会社をやろう、と決まりそこからは起業に向けて動き出すことになります。

ーー ついにアイザック創業ですね?

田中:せっかく新しくやるなら、何かおもしろいことをしたい、普通の会社とは違う会社にしたい、とふわっとしたところから始まったのを覚えています。

ーー ここからついに、アイザック創業へと動き出します!次回の記事ではアイザック創業から現在までの変遷について、書いていきたいと思います!

最後に…

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