尚雅堂の創業当時、商いは今よりずっと身体的なものだった。
祖父は、サンプルを大量に詰め込んだ鞄を持ち、夜行列車に乗って東へ向かった。
月に一度か二度、月曜日に京都を発ち、金曜日の夜に戻ってくる。そんな出張を繰り返していたという。
当時の夜行列車は、今のような快適なものではない。
木製で、角度のきついベンチが並んだ車両に揺られながら、一晩を明かす。
後年、祖父は脊柱管狭窄症を患うが、祖母は「あれが原因やと思う」と言っていた。
営業先では、とにかく歩き、話し、サンプルを見せた。
注文が決まると、その内容を電話で祖母に伝える。電話料金が安くなる夜八時以降を狙って、だ。
祖母は、その電話を必死にメモに取っていたという。
商品名、数量、納期。聞き逃さぬよう、書き漏らさぬよう。
尚雅堂は、文字通り、夫婦二人三脚で回っていた。
独立当初、祖父と祖母は「三年間は自分たちのものは買わない」と決めていたそうだ。
生活を切り詰め、会社を最優先にする。今の感覚で言えば、かなりの覚悟だと思う。
それでも、完全な孤立無援ではなかった。
独立の際、当時の親交のあった企業の社長が、祖父の自宅まで訪ねてきてくれたという。
幼かった父の手には、新幹線の大きなおもちゃが渡され、
「これからは自分が支える」
そう言ってくれたことは、今も家族の中で語られている。
その会社の存在は、その後の尚雅堂にとって非常に大きな意味を持つ。
現在も、尚雅堂の製品の多くは同社で製造されており、
尚雅堂の“本物さ”を下支えしている技術の核でもある。
依存という言葉で切り取れば、リスクはある。
だが同時に、その確かな技術がなければ成立しない製品があるのも事実だ。
創業後、すべての取引先が順風満帆だったわけではない。
独立を快く思わず、訪問すると椅子を片づけられた得意先も、一社だけあったという。
それでも、大半の得意先は祖父を信用してくれていた。
その信用が、尚雅堂の最初の数年を支えていた。
派手な成功譚はない。
だが、夜行列車と手書きのメモ、そして人と人との信頼の積み重ねが、尚雅堂の土台をつくっていった。
この時代の商いの感覚は、形を変えながらも、今の尚雅堂の中に静かに残っている。