サカナクションについて(とりとめのない話)
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こんにちは。藤村です。
とくにもうビジネスのことで書きたいようなこともなく、ふと思ったとりとめのない話をさせていただきます、、こんな人が受け入れられている器の大きい会社なんだな、、位に思ってください。
中高生の頃の僕は、いわゆる「ひねくれものユース日本代表」でした。カバンにはロッキンオンジャパンをねじ込み、SCHOOL OF LOCKを聴き、音楽記事の方に興奮していたタイプですね。そんな僕の眼に飛び込んできたのが、当時まだ“これから伸びてくる若手バンド”の一つだったサカナクションでした。
あれからずいぶん時間が経ちました。僕は社会人になり、会社ではそれなりに責任も増え、結婚もして、気づけば大人ぶりながら日常の大半をAIと会議とプレゼン資料の作成に捧げています。でも、そんな僕の耳の奥には、いまだにサカナクションがいるんですね。まるで住民票を移してない旧居みたいに、ふとした瞬間に顔を出してくるのです。
ただ、ここがややこしいところで、僕は彼らを単に「青春の象徴」みたいに扱ってるわけではないのです。(多分冷静に考えると全然そんなことはないんですが)もっと深い。もっと面倒くさい。もっとひねくれた角度から好きなんです。
まず、僕が持ちうる拙いボキャブラリーでどうにか表現しますが、サカナクションというバンドの音楽性は今さら言うまでもなく傑出しています。クラブミュージックに詳しいわけでもない高校生の僕でさえ、「これは何か、普通のロックとは違うぞ」と直感しました。音の層の厚さ、反復の中の緊張感、そして急に風景が開けるようなメロディ。たぶん、初めて「音楽に風が吹く」という現象を体験したのは、彼らの曲だったと思います。
ところが、です。
この国の評価軸というのは、不思議なほど慎ましく、そして妙に偏屈で、時に頑固なもんです。サカナクションは十分評価されています(紅白も出てるしね)。それは間違いない。ライブではアリーナを埋め、フェスでは大トリを務め、評論家も音楽通も彼らの革新性を認めています。
でも、僕は思うわけです。
「いや、これ、もっと上でもいいだろ」と。
そして同時に思う。
「いや、でも、まぁ、この国では案外こういうバンドは“あと30年後”とかにもう一度褒め直されるんだよな」と。
僕はそれを“30年後のサカナクション再評価現象”と勝手に呼んでいます。今のシティ・ポップがそうなっているように、音楽というものは時間が経てば経つほど、当時の文脈から自由になって、純度の高い“作品そのもの”として見直される瞬間があります。きっとサカナクションもそうなるのだと思っています。
ここまでは別にいいんです。問題は、ここからですね。
僕はこの未来が、ちょっと怖いわけです。
なぜ怖いかと言うと、その30年後の再評価の中心にいるのが、たぶん僕の子ども世代だからです。今はまだ小さな手でゲーム機を触っているような子が、大学で友人に薦められたり、TikTok(その頃にはおそらく創造もつかないような別の媒体が主役なんだと思いますが、、)とかで切り抜きを見たり、あるいはレコードショップで“名盤棚”みたいなところを漁ったりしながら、「サカナクションってさ、今聴くと逆に新しくね?」なんて言うわけです。あたかも自分が発見したかのように。
そして僕は、それを横で聞いているわけです。
「……おい、それ父さんがリアルタイムでずっと追ってたやつだぞ」と言いたくなるじゃないですか。いや、言わない。そこは大人の矜持で我慢します。でも、胸の奥でモゾモゾする。妙な懐かしさが襲ってきて、少しだけ湿度のある思い出がノドの奥に貼りついてくるんですね(完全な妄想です)。
そうなると、その時初めて僕は“いわゆる懐古厨の入り口”に立つわけです。
それはマズい。非常にマズい。なんせダサい。
僕はひねくれているので、自分が「うわ、この曲懐かしい〜」なんて、昭和の親父みたいに感傷に浸る姿を想像しただけで、なんだか気恥ずかしくなるんですね。心理学的に言えば、これは“若さの自己イメージの保護”というやつだと思うんですが、自分の中の若さの定義が揺らぐのを恐れているんだと思います。僕はなるべく、年齢に縛られずニュートラルでいたいし、「俺の青春」みたいな巨大ジャンルに支配されるのが嫌です。
なのに、サカナクションを聴くと、そのニュートラルが揺らぐ。
“あの頃”が勝手に蘇る。
本人が望んでないのに、勝手に思い出が再生される、厄介なやつです。
ただ、ここでまたややこしいのは、僕はサカナクションを純粋に“現役のすごいアーティスト”として聴いてるつもりだという点です。懐かしさ云々ではなく、今の音楽として優れているから聴いている。だけど、この感覚を若い子どもたちに説明するのは難しいしどんどん難しくなってくると思います。もっと言えば、彼らの“新世代的な受け取り方”に触れた瞬間、僕が自動的に“過去の人カテゴリー”に分類されてしまう気さえするのです。
たとえば、子どもが「サカナクションって逆にエモくね?」なんて言ってきたとします。すると僕はたぶん、心の中でこう思うんです。 ※僕に今子供はいないので完全な妄想です
“いや、それ20年以上前から分かってたよ!”
でも、これは言わない。そこは我慢する。
なぜなら、それを言った瞬間に僕は本当に精神まで“おじさん”になることを避けられないからです。
しかし、こういう回避行動はいつか限界がくることも知っています。
人は誰しも、時間という巨大な潮流の中で少しずつ角が丸くなり、ひねくれが摩耗し、気づけば「懐かしさもまた人生の味わいだよね」なんて言い出す生き物なんだと思います。子供の頃かっこいいと思っていたTVスターやバンドマンはみんなそうやって意味のわからない角の取れ方をしています。それが分かっているからこそ、僕は怖いんですね。
僕は、“未来において懐かしさを肯定してしまう自分”を恐れているんです。
僕が理想としているのは、年齢に関係なく、ひねくれを保ったまま、新しいものを更新し続ける人間像です。音楽も、仕事も、カルチャーも、別に「昔は良かった」なんて言わず、「今が一番面白い」といつまでも言えるような自分でいたいです。
でも、ここが難しいところで、たぶん人はそう簡単に“今が一番”なんて言い続けられないわけで、ある瞬間、ふいに昔の曲のイントロが鳴り、景色が一気に10代へと巻き戻っていく。それはもう、抗えない。脳の仕組みそのものがそうなってしまっています。
だから、僕がどれだけ抵抗しても、サカナクションの再評価の波が来た時、僕はきっと、「うわ……懐かしいな……」とつぶやいてしまう。
自分の子どもが「この曲やばくない?」なんて言ったら、僕はきっと、苦笑しながら「いいよね、それ」と返してしまう。そして、その返事の中に、どうしてもわずかな追憶が混じるのだと思います。
ひねくれ者でありたい僕は、年齢を重ねた未来の自分にも“ひねくれたままであってほしい”と思っています。なのに、その未来の自分を想像すると、どうしても丸くなってしまっている気がします。つまり僕は、ひねくれを守りたいのに、ひねくれを失う未来をすでに予感してしまっているという自己矛盾を抱えて生きているのです。
サカナクションを聴きながら、そんな馬鹿げたことを考えるのは、もしかすると年齢を重ねてしまった証拠なのかもしれません。
そう考えると、ひねくれ者としては本当にやりきれない気持ちでいっぱいです。
いつか誰しも恐れていた未来が来るのだと思います。
そして僕は、それを心のどこかで嫌がりながら、でもやっぱり嬉しくなってしまうと思います。それがまた、さらに嫌なのだけど。
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