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創業ストーリー【沖縄今昔:玉城文一】(表)

沖縄。。。

皆さんはどのようなイメージがありますか?

海・空が綺麗で

人があったかくて

独特の食文化や音楽があって

多分「良いイメージ」の方が先行するのが「今」の沖縄のイメージではないでしょうか?

たった50年前

ただ、弊社創業者が生まれ育った時代は激動の戦禍の後、まだ沖縄から内地(本土)に行くにも検疫やパスポートを要求されるような時代でした。

今の明るく爽やかな沖縄、180°違う風景だった半世紀前の沖縄。

創業ストーリーを勿論書くつもりですが一つ「読み物」として休憩時間等に読んでみてください。
勤務時間中はお仕事頑張って!(笑)

創業ストーリー:玉城文一

終戦記念日となっている1945年から数えると今年は76年目。
戦後の焼け野原はそりゃあ酷い有様だったと、この記事を書いてる人も小学校の授業でしこたま刷り込まれて「戦争は恐ろしい」と認識しています。

それ以上に沖縄の人間は「戦争は悲しい」という認識なのではないでしょうか?
身近な人に戦争経験者がいて、家族を失って、財産を失って、すべてを失って、それでも生きていかなきゃならない。

そんな時代の中、弊社創業者である「玉城文一」は糸満市に生まれました。

戦前の糸満は「漁師町」として栄えていて、創業者の父もサイパン遠洋で漁業に従事し比較的豊かに暮らしていました。

そんな中、創業者の父に戦禍が訪れます。
妻と二人の子供を失っただけではなく、自身も左手首・右手の指を失い満足に働ける状況ではなくなってしまいました。

失意の中にいた彼を救う一人の女性が現れます。創業者の母です。二人は再婚し家庭を築きます。

創業者の母は非常に気丈な女性で、まともに働けない父に代わり、女だてらに単身与那国へ飛び、所謂「闇貿易」で財を成します。

戦後の沖縄は闇貿易や闇市(現国際通り)が横行するのは「当たり前」で、そうでもしなければ食っていけない時代でした。米軍の配給だけでは食うのにも困り、基地場外にある廃棄物集積所は子供の遊び場兼まだ食べれる物資を探す場所だったと伝え聞いています。

父は彼女を沖縄から資金繰り等でバックアップし、母はその資金を基に買い付け・流通へ流すことで一家を支えていました。

そんな二人の間に創業者:玉城文一が誕生しました。

文一は所謂「やなわらばー(悪童:悪ガキ)」で小学生ながらにサトウキビ運搬トラックから物資を頂戴する計画を立て、仲間に役割を振り、実行して成功させてしまいます。
ちょうどそのころ母が病に倒れ、元から身体が不自由だった父も看病で付きっ切りとなってしまい、寂しさを紛らわせるように文一の行動はさらにさらに悪行へ向かって行ってしまいます。

文一の悪行が新聞に取りざたされ、先生から鉄拳制裁(時代ですね。。。)、超絶広大な校庭の畑を耕すことを命じられ(時代ですね、2回目)逃げ出すかと思いきや文一は黙々と日が暮れるまで作業に従事し、先生からは「逃げ出すかと思ったが、良くやった」と褒められました。
この時「人に認められる」喜びを知った文一は徐々に悪行から離れていくのでした。(ここもいい意味で時代ですね)

ちょうどそのころ病に臥せっていた母から「いちまでぃん童(わらび)でうららんどぉ(和訳:いつまでも子供でいることはできないんだよ。)」の言葉を受け取り、自分の将来を考えるようになる。

卒業文集の将来の夢は「建築家」だった。
高校に進学後、建築科のある大学へ進路を定めた文一だったが、家計が厳しく進学するための費用が無い。
学生時代はアルバイトと学業に専念し、自らの夢の為に尽くし、見事大学進学・卒業を果たした。


大学卒業後は東京・大阪の会社で技術・知識を磨き、沖縄に戻った文一は沖縄のとある建築会社で取締役工事部長を務める。

その後32歳で独立、環グループの前身となる「沖縄環境開発」を立ち上げる。
創業当初は請負金額も非常に安く、500円の弁当を買う事さえできなかった。
何とか会社を軌道に乗せるために文一はがむしゃらに働き、薄利多売の状況が5年ほど続く。

公共工事が受注できれば一気に会社を安定させる事が出来るが、その分「接待費」やそれ以外の支出、真にお客様の為にならない「付き合い」は確実に増える。

文一はそれを良しとはしなかった。タマキホームには今も「接待費」は無い。

接待費に金を掛けるぐらいならその分安くして、お客様に還元したい。この誠実さと目の前のお客様を見つめる姿勢は文一亡き後もずっと受け継がれている。

そんな中、文一は自身が持つ一級建築士の資格を生かし、設計・施工を一貫して行う事で高品質な住宅を提供できるシステムを確立する。
言葉で言うのは簡単だがお客様との折衝、図面引き、工程管理、型枠、スラブ打ち(基礎工事)自身でできることは何でもやった。

現社長である「玉城公之」もお小遣いに釣られ、現場に引っ張り出されることがあったと話しているが「結局お小遣いは一度も貰えた試しが無かった」と笑い話として話している。

こうした「お客様と誠意をもって向き合う」姿勢は住宅建築にもその真価が現れ、順調に顧客を拡大していく中、マンション開発にも着手していく。
マンション開発は堅調に推移し、業容も多岐にわたり、発展の一途を辿り、会社は今年41年目の年を迎えている。

タマキホームを表す創業者の言葉

文一は自身の操業を振り返ってこのような言葉を残している。

「沖縄の会社は中小・零細が多く、規模が小さい会社はそこで働く人が【多能工】でなければ利益体質を作ることは難しいと思う。また、【3つの汗(心の汗・頭の汗・体の汗)】をかくことが大事だと思います」

お客様と真摯に向き合い、まだどこにもないアイディアを創り、自ら実践する、その為に自分が出来ることは何でもする。

この姿勢は現代表である玉城公之にも色濃く受け継がれている。

玉城文一は夢半ば、創業30年目の節目にこの世を去ることになる。

文一は生前「甘い人間が経営者になれば会社を潰してしまう。会社も金もすべて現世からの【借り物】ですから、死んだら返します。そういう覚悟は持っています。また、経営とは【経世済民】の心なりを常に忘れず経営をしております」と語っていた。

創業ストーリーを書いてみて思う事

40年前の創業時、まさに「スタートアップ」企業から走り出し、ある程度の企業規模になった弊社ですが「気持ちはスタートアップ時の熱い想いを引き継いでいる」事を強く感じます。
熱い気持ちで、沖縄の地で、海の向こうを目指して働いてみたい方は是非、弊社へお声掛けください。

沖縄今昔として「余談」を(裏)として書かせていただいていますので、気になった方はご一読ください。
勤務時間中はお仕事頑張って!(笑)

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