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失敗と挫折の連続から這い上がり続ける壮絶な人生。社長に今までとこれからを聞いてみた。

今回は当社の共同代表の新井景介社長のインタビューをしていこうと思います。
なぜ起業するに至ったのか、ここまでどのように考えて会社を成長させてきて、今後どのような会社にしていきたいのかなど様々な軸でお話を聞いていきたいと思います!

-本日はお願いします!まず景介さんのことを知らない人に向けて自己紹介をお願いします!

はじめまして、NINJAPAN株式会社の共同代表の新井景介です。

自分で言うのもなんですが、94年生まれの心優しい兄ちゃんです!



-がたいと見た目とのギャップがすごいですね!何かスポーツとかやっていましたか?

はい笑
身長187cmの体重100キロです笑

今まで様々なスポーツをやってきたのですが、野球と格闘技は人並みにやっていたと思います。
特に野球はメジャーリーガーを多数輩出する全米No.1にもなったこともあるアメリカの超強豪高校で1年間プレーしていました。
帰国後、大学入学までの間、独立リーグで半年ほど練習に参加していました。


(↑サイズ感を表した写真)



-そんなすごいところでやっていたんですね。やっぱりアメリカの強豪校の練習は厳しかったですか?

とてもハードでしたが、日本の野球とは違ってすごく合理的で上下関係もなく、科学的根拠に基づいたハードな練習をしていました。
もちろん競技力向上のための限界を超える「気合い」は重要でしたが、日本のように無意味な「練習中水を飲んではいけない」とか、丸坊主みたいな無意味な根性論はありませんでした。

それは今の仕事にも影響があると思います。
無意味な強要とか非合理で生産性のないことは嫌いです。

-野球をずっとやってきたと思うんですが、なぜ起業しようと思ったんですか?

実は僕、今の会社が3社目の起業で、早稲田の4年生の時に起業したのが最初でした。
7年前とかですね。

大学生の頃はすごい迷走していたんです。
エネルギーに溢れていたというか、何をしたいかよくわからないというか。

大学入学当初、早稲田で野球をやろうと思って野球部に見学に行ったのですが、あまりにも日本の伝統的野球部という感じだったんですよ。
アメリカでの野球と独立リーグでの野球とはかけ離れていました。
それをみて、この環境は自分には合わないと思いました。

そして結局野球はやらずに、打ち込むものもなくフラフラしてエネルギーを持て余していました。
その当時は何者かになりたいという気持ちが先行していて、将来どうなりたいとかもブレブレで学校も行かず遊び呆けていました。

そんな時に早稲田の授業で起業家養成講座なるものがあって、その授業に参加して起業するという選択があるんだと初めて気付きました。

兵庫の一般家庭出身なので、親や学校からはいい大学入っていい企業へ勤めるみたいなのが当たり前だと洗脳されていたので、会社を自分で一から作って大きくして行く人生があるというのは目から鱗でした。

-そこからすぐに起業したんですか?

いえ、実はその後もう一度留学したんです。
僕は国際教養学部というところにいたので、留学がカリキュラムに含まれていたんですね。
だからとりあえず、行こうと。

実はその時も野球への未練があったので、アメリカの大学野球リーグで最後に暴れてやろうと思っていました。
とはいえ、向こうの野球部はNCAAというリーグのD1、D2、D3とあるのですが、大学で野球をやるのはほぼ全員が推薦のため、D1は特に、留学生が1年だけプレーするとかあり得ないんですよ。
だから安牌をとって、早稲田の提携留学先でD3に属している大学を適当にピックアップして、候補を複数出しました。

そこで決まったのがLawrence Universityというウィスコンシン州にある大学でした。
そこで無事トライアウトをクリアして野球部に入るもすぐに肘を怪我をして、野球ができなくなってしまいました。
野球ができないならアメリカにいる意味がないと思って、冬休みのタイミングで勝手に帰国しました。

-勝手に帰国して大丈夫なんですか?

いや完全にダメですね。向こうで景介がいないって少し騒ぎになったみたいです。その後早稲田の留学センターを出禁になりました(笑)

怪我をして野球に対しての想いが不完全燃焼だったので、その熱量で起業してやろうと思いました。

でも何をしたらいいかわからなかったので、とりあえずインターンをしようと思いました。

適当に探してたインターンのサイトにあったのが、外資系のゲームアプリ会社で、面白そうだったので友人を誘って応募しました。
無事面接を通ってインターンをすることになりました。


-インターンでは何をしたんですか?

SQLを使ってデータからユーザーの行動分析とファネル分析をして改善のための仮説と施策をぶん回すみたいなことをさせてもらいました。
その時の代表の方からは色々と学ばせてもらいました。
その後インターンをしていた友人と起業することになります。

-起業してからは順風満帆でしたか?

お恥ずかしながら、最初の一年は売り上げがまったく立ちませんでした。

アイデアと勢いで起業したため、収益化が全くできませんでした。
資金調達に関しても、当時はVCに行ってもまったく相手にされませんでした。
まあ、アイデアに再現性がなかったり、売り上げをたたせるロジック、成長性に関して漠然としていたのが原因だと思いますが。

最初の1年であまりうまくいかなくなったタイミングで、共同創業者が就職するということで抜けて、一人代表になりました。
実は一人代表になってからの方がうまく行ったんですよ。



–それはなぜですか?

やはり、仲の良い友人との意識高い起業ごっこからの脱却が大きかったです。

なんとかしないといけないし、責任は自分一人で負わないといけないとなってから、目の色が変わりました。
たまたまですが、当時インターンしていた時の社長に、「景介、華やかなの向いてるでしょ、紹介したい人がいる」と言われて紹介されたのが、今やテレビCMとかでもお馴染みですが、当時黎明期だったライブ配信の会社のカントリーマネジャーでした。

ライブ配信をする人の稼いだ額の数%が還元されるエージェント契約だったため、当時片っ端から芸能事務所や、知り合いに声をかけまくり、営業をしまくりました。
今でこそ、大手のタレントや芸能人が配信していますが、当時は大手はほぼ全部が無視で相手にしてくれませんでした。
興味本位で話を聞いてくれた中堅の会社も「ライブ配信なんかやっても誰がお金払うの」みたいな感じで、営業は苦戦しました。
ただ、小さい事務所や素人で成り上がりたいと思っていた人たちには刺さり、彼ら彼女らが参戦して契約してくれることになりました。
そうするとなんと、僕経由からNo.1キャストやトップキャストが複数人出ることになりました。


それまでは、慈悲でもらっていたお仕事が大半でしたが、はじめて自分の力で稼げたというのが原体験でした。
「人を紹介したらお金になるんだ」と気付きました。
そこではじめて人材業界のことを深掘りして、人材紹介や人材派遣という業界について詳しくなることができました。


稼ぐ方法を見つけてからはすごくはやかったです。
人材紹介の免許を持っている会社さんと契約して、すごく良い条件でカウンセラーをやらせてもらったり、早稲田生を大量にアルバイトに派遣したり、採用のイベントを主催したり、と自分の持っているリソースを最大限活用して、営業フル特化のパワースタイルで売上をあげました。

当時は最高で月に500万程度の売り上げがありました。

大体そのくらいの金額が稼げる個人的なバブルが半年くらい続きましたが、終焉はあっという間でした。



-そんなにうまくいっていたのに急に終焉を迎えたんですか?

はい。原因は単純です。
再現性というものや組織の難しさを何も考えていなかったからです。

その当時の自分は、「こんな簡単に稼げるのであれば、人を雇えば倍々ゲームで売上が上がる」と思っていたんですよね。
今まで自宅を事務所にしていたのに、急に池袋のほうに事務所を構えてみたり、一気に人を雇ってみたり、新しいことにも手を出してみたりしたんですよ。
そうすると、固定費がかさんだし、人をマネジメントするのが思った以上に難しくって。
自分が簡単にできていたっていうのも感覚で、具体的に言語化されていた訳ではなかったので、伝えるのが非常に難しかったんです。

人に教育していると、自分が営業や実務ができなくなり、売り上げが下がり、固定費がどんどんキャッシュを圧迫していきました。
さらに追い込まれているそういう状況で甘い話に乗っかってしまい、大損をしてしまい、もう太刀打ちができなくなってしまいました。
そこからがどん底でした。

会社を手放し、車も手放し、周りを整理して、どうしようもなく、精神も潰れて、家賃も払えない、そんな状況が2ヶ月くらい続きました。その時には、死んだ魚のように、力が抜けて「Amazonプライム」をひたすら見てました笑
その時にSAOとか、転スラとか色々なアニメを全部みました。
今だから笑い話ですが、当時は本当に笑えない状況でした。



-壮絶な人生ですね、、、そこから2社目に振り切れたのは何か理由があったんですか?


理由もクソもなく、食わないと死ぬというのが実情です。
実は2社目は当時のノウハウを死んだ間に言語化して、業務委託やコンサルに入って小銭を稼いでいました。

そのタイミングで雇われ社長もすることになるのですが、やはり雇われ社長は僕には肌が合わなかったというか。
社長とはいえ、結局お伺いを立てないといけないし、ダイナミックに意思決定できなくて、どちらかというと新規事業責任者に近い感じでした。
持ち前のクレージーさが出せなかったのかなと思います。
おかげさまで生活の立て直しと人並みの生活を手に入れて、日常に戻ると人間て不思議なんですよ。

当時の辛いことなんて忘れている訳です。やっぱり、自分で勝負したいし、起業したい!って思うんですね。
多分僕はこの生き方しかできないタイプの人間です。
すごく極端な人間ですよね。


そんなタイミングで、地元の銭湯で外銀出身の兄と談笑しているタイミングでビジネスアイデアが盛り上がり、お互い実現したい世界観、ビジョンなどが一致し、さらに「このアイデアならマーケット空いてるしいける」ってなって共同で創業しました。

–その後はうまくいきましたか?最初は今とは違う事業をやっているんですよね?

実はまた失敗するんです。どんだけ失敗するんだよって話です笑

その当時やっていたのは京都の祇園での訪日外国人向けの観光ガイドサービスです。
マーケット的に海外では当たり前のエンタメ性のある体験型の高単価ショートトリップが日本では圧倒的に不足していたので、そこに目をつけました。
祇園の一等地の風情のある京町屋に施工をいれて、非日常なエンタメ空間を作り、そこを使って客単価を上げる施策をやり、テストマーケティングでは割とうまくいったため、これはいけるとなっていました。


でもそのタイミングでコロナが襲来しました。
コロナのニュースを聞いた時は、なんか風邪がはやっているなくらいな認識だったのですが、ロックダウンされて、外国人が京都から消えて、どうしたらいいかも分からない状況でした。
なんとか生き残ろうと、改装した京町屋を飲食店としてスタートするも、緊急事態宣言が発令され、日本人も京都から消えました。

あんなに空いている京都を色んな意味で満喫できたのは今では良い思い出です。
倒産までまっしぐらの状況でしたが、兄となんとしても生き残ろうと決意して、色んなビジネスを模索しました。何個も走らせました。

その時のメンバーはやる気がなくなっていました。仕事をしませんでした。
僕らだけが空回り状態。

先は見えないし売り上げもないし、何も収益化する事業はない。
自分がもしメンバーだったら離れるし同じ状況になっていたと思います。もちろん色んな事業は全て大失敗。
そんな中で奇跡の電話が鳴りました。


-奇跡の電話?どんな内容の電話だったんですか?

中高の同級生でITをうまくいかせているこれまたクレージーな友人がいるのですが、そんな彼からたまたま別件で電話があったんです。
その時に彼から「旅行って大丈夫?」みたいな話があったんです。

もしよかったら、仕事の話しようよって言われて、六本木のインターコンチネンタルへ京都から兄を連れて速攻向かいました。
そこで彼から、もしあれだったらうちを手伝ってよって言ってもらえて、生き残ることができました。

赤坂の路地裏で兄と泣きながら抱擁したのは今でも鮮明に覚えています。
側からみたらやばい奴らだったと思います。

今考えると、彼からの期待と半分慈悲もあったと思います。
の男気に助けられました。今でも感謝してもしきれないし、一生頭が上がらない存在だと思っています。

その時に経験させてもらった業務で、ITや最先端のマーケティングとか採用とか幅広く経験させてもらったことが今の事業にも生きています。

そこで業務委託で手伝っている間にも、色んな事業をまた試すわけですが、その時試した事業の中でうまくいきそうな気配が見えたのが就活コーチングだったんです。

業務委託で稼いだお金の生活費以外のお金は全て、広告にぶっ込み検証していました。
そこから、業務委託を抜けさせてもらい、今の事業にフォーカスしていくことになります。


-壮絶ですね。こんな歴史があったとは。

今の事業を作ってからもピンチの連続です。
ただおかげさまで、兄の開発したメソッドと優秀なメンバー、協力者のおかげで短期間で圧倒的に成果を出す生徒が増えているのも事実です。

本当に良いサービスを、できるだけ多くの方に利用してもらいたいと思っています。

もちろんまだまだいたらない点や改善すべきポイントはいっぱいあると思いますが、
我々のサービスをしっかりやり切った人が、ミスマッチをなくし、人生を豊かに、自分に本当にあった選択をし、社会に出て活躍していくことが、日本の国力を向上させることにつながると思っています。

うちのCSマネジャーが言っているのは「日本の満員電車を笑顔にする」で、非常にいい意義目標だと感じています。
日本のサラリーマンの多くは人生の大半を過ごす仕事を真に楽しめていない。
ただ生きるために仕事をしている。人生を豊かに過ごす手段のはずの仕事に人生を蝕まれているという本末転倒な事態が起こっています。

こんな状況を我々のサービスでなくしていきたいと思うし、皆がイキイキ働くことで日本の国力は確実に向上していくと思うんです。

我々のサービスが世に知れ渡って、就活をするならAbuild就活を使うのが当たり前というレベルまで、拡大して良いサービスを提供し続けることが、日本への真の貢献になると思っています。

それくらい良いサービスを作っていきたいし、新しい常識を創りたいです。
おかげさまでこのサービスを正式にリリースしてから2年経ちますが、業界で最大規模の会社になりました。
おそらくですが、売上規模で行ったら就活塾のカテゴリーで圧倒的No.1だと思います。
これだけ急成長できたのは、実際に高い目標を掲げて常に今の現状に甘んじることなく、改善、成長を志し続けたからだと思っています。



-これからはどのような会社にしていきたいですか?


先ほども述べたように、我々は新しい常識を創り続けたいと思っています。
我々の会社のVISIONは「次世代に、熱く在れる常識を創り続ける」と掲げています。

就活塾の市場は現在はニッチですが、これが新しい常識になるように日々精進努力を続け、全ての就活生が使うサービスまでブラッシュアップし続けたいと思っています。

就活だけに留まらず、今も我が社ではさまざまな事業に挑戦しています。
新しい常識を創り続けるためには、挑戦をしないと始まりません。

我々は挑戦をして、高い志をもった失敗を恐れない優秀な集団でありたいと思っています。
仕事を生活の手段に考えている人はいくら優秀な人でも必要ありません。

社会に新しい常識を創ってやると鼻息を荒くした、人生を賭けると考えている人間が仲間に欲しいと思います。

せっかく仕事をして自分の時間を使うなら、社会をよくする方向にエネルギーを使うべきだと考えます。

そもそも私自身、不可能だと思ったタイミングやピンチの時など人生の要所要所で運に助けられて、何か天命のようなものを感じるときがあります。
オカルト信者ではありませんが、人生を振り返ってみると何かそういう大きな力を感じたことが何度もあります。


とある大企業を一代で創り上げた方の言葉ですが、「1兆円からがスタート」という言葉に感銘を受けまして、それを社内では言い続けています。
社会にインパクトを与えたいのであれば、それくらいの規模にまで大きくしていかないといけません。

どうせ一度きりの人生ならば、社会構成員としての当事者意識を持って熱く、楽しく、狂気的に楽しむべきだと思います。我々は挑戦し続けます。


-急にスイッチが入ったみたいで、インタビュー中の空気が変わりましたね。

そうでしたか笑
ついつい熱がこもってしまいました。

ただ一度きりの人生を傍観者で終わるのはもったいないと思います。
僕らはまだまだベンチャーだし、何者でもない。だけどこれから社会を変えていく集団になるのは紛れもない事実。世の中の変化の荒波の渦中に積極的に入っていく。

そんな会社だし、「俺が、私が」会社を成長させてやる、世の中を良くしてやると闘志を燃やした人間しか合いません。

今社員人数が13名、業務委託合わせると150名近くの人間が関わってくれています。
社員になる人間はさまざまなバックグラウンドがある中、この会社に集まっています。

社会を良くして、一度きりの人生を圧倒的に楽しむために。中途半端はつまらない。どうせやるからには狂気的にやるから楽しいんです。
中にはGAFAMから転職してきた人間や、個人事業で月数百万稼いでいた人間もいます。
当然年収は下がります。短期的経済合理性だけを考えたら、異常ですよね。

これが僕らの強さを証明しています。

将来の価値成長を考えたら、今来るのが良いと思うからだろうし、さらに志がある。

そして一度きりの人生を圧倒的に楽しめる。



–すごい熱量ですね。そろそろ時間的にも最後の質問になりそうです。では、最後にどんな人にきて欲しいですか?


先ほどから言っているように、自分が社会を良くしてやる、会社を良くしてやる。
一度きりの人生を楽しんでやるっていう鼻息の荒い人間が良いですね。
うちの会社はすごく皆がウェットで変なやつばっかり集まっていて、面白いですよ。

大手からきたら正直びっくりします。
それくらい異端が集まっているから面白いし、事を成せると思います。

もちろんただマインドだけが先行していても意味はありません。

頭でっかちで言うことや気持ちだけが一丁前だと意味ないので、ちゃんと考えて努力して、行動できる人間でないといけません。
優秀でクレイジーな奴らと働けるって言うのがもしかしたらそれはそれで面白いポイントかもしれません。

育ててもらおうとか勉強させてもらおうと言う人間も必要ありません。
そんくらい自分でキャッチアップして食らいついてこいって感じです。

成果を出せる優秀な人間には年齢や期間にかかわらず、ポジションやチャンスを積極的に渡していきます。
ワークライフバランスという言葉は存在しません。ワークイズライフです。
Work Super Hard, Play Super Hardです。
この言葉に共感できた人がうちにとって合う人間なんだと思います。


–景介さん今日はお忙しい中、お時間とってくださりありがとうございました!
以上でインタビューを終えたいと思います!

ちょっと熱く本音で語りすぎたかも笑
ありがとうございました!


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