松田軽太さんが、僕田所を漫画にしてくれました
まあ、普段、あちらの会社で怒っている某上司を、僕が背後から肩をポンと叩いて、クールダウンさせて(おい、表へ出ろやお前w)いるところです(・∀・)ノ
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ネットウイングス / 代表
インフラ系ITエンジニアです。 COBOL/FORTRAN/ANSI C/C++/Java/Linux(RHEL/ChromeOS)/Apache/BIND/Perlなど40年選手。 レガシーもモダンも対応可能、泥臭い現場話はちょっと苦手(笑) 世間話はお気軽にどうぞ。
尼崎市立歴史博物館・アーカイブズに、阪神大震災の史料を全部お渡しし、自分自身の中の阪神大震災に蹴りを付けたばかり。忘れましょう、阪神大震災のことは。やり直すならそれからです。 今後もインフラ・セキュリティ領域で、信頼される技術提供を続けていきたいと考えています。
過去のMCP(MCSE)資格とは: https://ja.wikipedia.org/wiki/Microsoft_Certification_Program 現在のMCP(Model Context Protocol)とは: https://ja.wikipedia.org/wiki/Model_Context_Protocol ……このように、一口に「MCP」と言えども、今と昔じゃあ意味が大違いですー(・∀・)ノ
@NetwingsJは元情報インフラ系エンジニアでユースウェア技士の田所憲雄氏が運営するアカウントで、IT技術者間のゆるやかな連帯を目的にセキュリティ認証制度やWindows関連のTipsを記事共有している。投稿ではユースウェアの死語的な概念をパソコン修理を超えたユーザビリティ向上として再解釈する独自の見解が特徴的だ。日常の健康管理や関西独特のコーヒー文化観察、ラジオ聴取などの個人的エピソードを織り交ぜ、親しみやすい関西弁でつぶやくスタイルが魅力。
プログラミング(主にJava)と、マイコントレースカー、プリント基板作成機に依る回路作成など。
受講生として、ゲートIC(論理回路)、電子基盤の製図、マイコントレースカーの制作、Oracle Java 言語の習得など。家の事情で途中で中座(というより、Java を組む同級生が、いい加減な実装を行うので、嫌気がさしたため中座しました) もう、ポリテクセンター兵庫でやっている無料訓練は、実地の仕事の中で、既にもうやって来ました。「結構やったっしょ! 結構やったっしょ!」と言いたいです。 また、ポリテクセンター兵庫・マネジメント情報システム科で、サムスン電子の金(きん)さんにスカウトされかかったのですが、お断りしました。もしかすると、今頃galaxyスマホを作っていたかも知れないと思うと、日本住まいで良かったと思っています。
回路設計を学んでいたポリテクセンター兵庫の門前で金(きん)さんという文字通りの人が待ち構えていて、サムスン電子にスカウトされそうになりましたが、勤務先:ソウル特別市と言われて、ソウル市内でホームレスになるのは嫌だなあ、と言って婉曲に断った経緯がありました。サムスン電子さんごめんなさい。 もしあのままソウル特別市でサムスン電子に入っていたら、今頃galaxyのスマートフォンを作っていたかも知れませんね。運命は不思議。
なーんか、大昔に勉強したんですよ、電電公社用語。呼とか着呼率(単位:アーラン)とか、なんじゃかんじゃ。それに、ヤマハのルーターのVoIPルーターとか、SIPサーバーとかもかじったな? もう今ではうろ覚えになっちまったけどね? 25年ぐらい離れているからね。半分は忘れかかっているのですが。それがために、人間がノイローゼになってちゃ世話無いですけどもね(笑)
これは、マカフィーePolicy Orchestratorとか、MS Exchengeサーバーや、ウェブサーバーを、当時はオンプレミス環境で動かしていましたので、パワーがあるサーバーでないと能力が発揮出来なかったためです。現在では、レンタルサーバーに変更している模様ですが。
兵庫県西宮市甲子園口にある、兵庫リコーの代理店。お客様にパソコンやサーバー類のカスタマーサポートを行いました。Windows 2000 Server、Microsoft Exchenge Server(社内試用)、DNS BIND など、インフラ系エンジニア寄りでした(です)。
むかしむかしのこれなんですけどもね、Windows 2000とかの、しかもオンプレミス環境のものを取得済みです。Azure ADではないです。 趣味で昔、ベンダー系の資格ばかり取っていたので、あれって陳腐化も早いのですよ。国家資格を目指した方がええよ(・∀・)ノ MCPもいくつか取ったけど、オンプレミス環境のActive Directoryなんか、誰も知りたくないわな。いま全部Azure ADだかんねー。
「弟子に取った覚えはない!」って言われそうですが、河端善博さんと、マイクロソフト社員とのエンジニア同士の「SID History」の会話なんか、当時の僕にはとても難解で、ためにはなるんだけどややこしい、みたいな印象がありました。
ショールームで「サイボウズAG」を「古野電機さん」にデモンストレーションしたなあ。サイボウズAG(当時)のグループウェアのデモンストレーションを行いました。それなりに、自社ショールームに訪れた法人様にはご購入していただけたようです。 また「簡単に使えるもの」が、裏を返せば「簡単に設定できないもの」であることを理解した時期でした。
ケーブルテレビZAQに付いて来るインターネットモデムの設置設定と、お客様先パソコンの設置設定をスポット的に受けていました。 CATVアンテナ工事屋さんの後を、原付バイクで追いかけるようなお仕事をくれました。
大阪市内、現ZAQ(ベイコミュニケーションズ)の、ケーブルテレビの敷設の電気工事士さんが、僕より先にやって来て、通信インフラ系やテレビのセッティングをしてから、僕が入って、パソコンのパケットが正常に通信確立出来るようにしてから、インターネットを設定する(DNSなど)感じのスポット的なアルバイトのようなものです。
その年から始まった、高等学校普通科「情報1」でしたんで、主に、センター試験に出る「情報1」の範囲内(概ね、IPA試験のITパスポート試験の範囲内とほぼ同一)で、基礎的な情報処理リテラシーを学ばせる授業の時だけ学校に行くという生活をしていました。
やっぱり印刷かな? と思って一時的に印刷業DTPに戻った次第です。訓練校(ポリテクセンター兵庫)の畠山講師に言ったら「それは勿体ない!」と言われて次を探したものです。この会社には、あまり良い思い出はありませんでした。
転職することが、必ずしも悪ではない時代です。なぜかって、僕自身、斜陽産業だった印刷DTPを辞めてこっち(ITインフラ業)に再就職したのだから、それは必ずしも悪いことではありませんよ。時代が変われば、やって来た仕事が消滅するかも知れない。旧態依然の産業にしがみつく理由はないですよ。
一般人には理解不可能な、難しいパワー半導体などの技報を仕上げました。何回も再校正があり、困難を極めましたが、Edi Color(版組ソフト)や、FACIRIS(面付ソフト)の技術を活かし、制作・納品にこぎつけました。
刷版出力にレンダリングする場合、どうしてもベクトルイラストをドット絵に書き起こしたり、作業用にスキャナを使う場合や、Adobe社製品をオペレートする際に、高性能のiMacでないと、仕事が捗らないからです。
大阪市北区芝田町のプログラム受託開発企業。いきなり顧客先派遣は難しいので、JUA(日本ユースウェア協会)の仕事から始めさせてもらいました。大阪ドームの「パソコンフェスタ2000」に参加出来たのはいい思い出。JWNTUG大阪(日本ウインドウズNTユーザーグループ)に加入したのもこの頃です。
IPv4でBINDやってたけど、センパイ社員は「NAMED.CONF」の時代の人だから、手書きでサーバーOSのDNS(WindowsNT4だったら、メモ帳で)それを書いてました(・∀・)ノ すげえや! って素直に感心していました。到底手書きでDNSなんて、僕の場合出来なかったです。凄いですね。
社長夫人の親戚の貿易商社(大阪市内)に赴いて、ニムダウイルスと初対面しました。当時は、オンプレミス環境のサーバーも、クライアント機も、セキュリティソフトがあまりなかったか、とてもライセンスが高額でしたので、その会社は、セキュリティソフトが全く入っていませんでした。それどころか、従業員が、ウイルスによって咲いたお花の画面を飾っていましたので、思わず「全部のクライアント機からLANケーブル抜いてください!」と叫んで、1台1台ウイルスを抜いて行ったのですが(トレンドマイクロ社のもので)しかし、放置期間が長すぎたため、食われたファイルも多く、全面復旧には至りませんでした。
自社サーバー(Linuxのオンプレミス環境サーバー)のサイトデザイン、顧客先企業のサイトデザイン(打ち合わせ含む)、専用線敷設(当時は、KDDIから直接買う方式)で、JPNICハンドルをもらう(技術担当者として)「NT****」とか言うJPNICハンドルを持っていた時代がありました(現:JPRS、CO.JPドメイン)。
修了研究:Windows NT4 Server、Apache Web Server、BIND DNS Server、Fedora Core 3 Serverなど 学習したこと:ANSI C、Visual Basic、N/Wルーター(CISCO)など
ちょっと昔過ぎて、正式名称を思い出せないのですが、工業高等学校・情報技術科でやったようなことの、ちょっと応用をやって合格しました。この時やったことは、電子回路、ゲートICなどです。
結構頑張った結果がこれです。2級になると、プログラミング演習があるのでちょっと当時の僕には無理でした。
当時の畠山講師の下で、VBA、あるいは、VBA for Access も学んで来なくはありませんでしたので、最新式に対応する分には、ある程度の習熟期間は必要ですが、ほぼほぼ即戦力と言っても過言ではありません。
このように、わたくしは、尼崎市役所戸籍住民課直伝の国語表現を理解しているので(たまたま、校正のおじいさんが元尼崎市役所勤務)すごい激論を戦わせたし、国語表現について、ちょいと厳しいところがありますが、まあ、余りお気になさらないでください。 なお、写研ルールと、産経新聞社の校閲ルールに則って国語表現を打鍵していました。 ここで言う体験等を「味わわせる」のではなく、体験を「させる」方がより適切な表現ではなかろうかということを議題に上せるのです。
まず、年少者から、Windows98/2000 の面白さを理解させ、文字入力の外注を止めさせました。次いで、SONY NEWS Workstationや、Power Mac(iMacのこと)の導入に際して、年長者(老人)を除いては、8インチFDを廃止しました。 リンクは「創栄図書印刷」さんの「一寸の巾式キーボード」(写研)の記事です。僕も最初は「どうやって打つの!?」と思いました。これで、軽い神経症を発症しました。
日本語組版ルール。最初は「写研フォーマット」で文字組みを習い、次に、Edian Plusが入った際には「産経新聞社校閲ルール」に従って打鍵、組版していました。 当時の「日本印刷技術協会(JAGAT)神戸支部」の短期職業訓練も受けていましたー。役物の使い方だったら、何でも訊いてくださいねー。
本当のLPGって液で出来ていて、ボンベの中もあれは液状なのです。それを切り替える切替弁の軽量化・動作音静粛化改良設計に携わって、それなりに量産化にこぎつけました。
僕は、尼崎市立花町のカグラベーパーテック株式会社で、「新型キリカエ」(自動液系統切替弁)の図面描きをしていました。親戚の会社に宮仕えして(苦笑)方々から来るプレッシャーや、すごいストレスフルな中を、金属材料、金属加工とは何かを独学で勉強し、結果、カム類、弁管類を拵えるお手伝いをしていました。金属加工って、単にCAD/CAMだけ知っていれば出来ちゃうものでもないんですね。 そして、余りにも取締役技術部長の要求水準が高いものだから、すごい複雑なカム類の図面を描いて、大阪市の昌栄機工さん(金属加工業)の試作品作成の途中で、硬い丸いアルミ棒(SCS400)を削らせたものだから、工員さんの指を大けがさせてしまって……平謝りでしたね。あれは今でも痛恨事でしたね。顧問の水口さん、そして工員さん、今更ながらごめんなさい。 もしも、あの複雑なカム類が、導電性の66ナイロン製だったなら柔らかく、工員さんの指を大けがさせずに済んだんだろうと思って試作図面を全面的に書き直したんですが、取締役技術部長から「ワシの代では責任を持てないから、ダメー!!」と言われて、泣く泣く図面と試作品を廃棄したものでした。 指が持って行かれるって、余程……。あー、黒歴史クリーナーがあればどんなにいいことでしょう。
いわゆる、ワークステーションと呼ばれるものです。そこで、AutoCAD LT(機械製図用:2.5次元)を、例えば3面図を立体に書き起こす場合に、パワフルなRISCワークステーションでないと、第二原図出力などが、スムーズに捗らないからです。
契約社員として採用されたはいいものの、水島会長の本拠地で(当時)食料品売り場(デパ地下)とアパレルがけん引しており、その他AV商品は売上イマイチなところへもってきて、新米社員が70円で仕入れた乾電池を72円で売ろうとするなど、正社員にコスト意識が全くない。そんな職場でした。むしろ、アルバイト・契約社員・プロパー社員の方が元気ハツラツでした。
親の離婚調停が成功したので、千葉家庭裁判所で子の氏の変更届を提出し受理。母親の姓「田所」を名乗るようになりました。同時に、母親を養うことになり、自分自身と母親を食べさせなければならない困難に直面しました。幸い、母親が先に千葉そごう(催事場担当の)パート社員だったので、食べるには困らなかったのですが、千葉市(緑区)誉田の住環境が良くない(少年院を出てから観察処分になっている男性が上階に住んでいた)ため、家主から敷金礼金返してもらって、そのおカネを元手に、兵庫県尼崎市に転居したものでした。
当時の百貨店、特にそごうのような老舗大手は、接客マナーの教育がかなり厳しくて徹底していました。挨拶の時間帯区分も、社内研修でしっかり叩き込まれていたはずです。 百貨店業界の挨拶ルール(当時〜現在もほぼ同じ) おはようございます:開店〜11時頃まで(午前中、特に開店直後のお客様向け) こんにちは:11時頃〜17時頃まで(メインの昼間帯) こんばんは:17時以降(夕方〜閉店後) これは百貨店などの小売・接客業でよく見られる基準で、NHKや秘書検定の基準(おはようは9〜10時まで、こんにちはは10〜18時など)と少しズレがあるのも特徴です。
そこで、村田機械株式会社さんの「エフ・ジャン・ムーラ」というA4のファクシミリを2個セットで売りまくって、売り場の上司の上司(フロア長)からは「ムーラ」というあだ名が付く。本来商業系の脳みそをしていない(工業系情報処理)のですが、ここで、商売っ気を出して売り上げに少しは貢献できたかな? と思っています。
本当に、百貨店で生計を立てていなくて正解だったのですが、完全にアパレル移行になろうとも、ターミナル駅でモノを陳列して、売って儲ける「百貨店ビジネス」は、コロナ禍と、インターネット社会の中で、完全に終わりを告げようとしている2022年です。コンビニが、そごう・西武を飲み込んだ上で、屠ろうとしている現在です。そごう・西武売却報道を受けて、コンビニの株価が、高値を付けるというご時世です。デバートメントストアというものが、今ではすっかり厄介者扱いです。
仕入れ部門(本社)に、仕入れ値のディスカウント能力が全くなく、商品仕入れ値の12%しか利益を吹っ掛けられない。安売りできなくて、同業他社との価格競争に勝てず。やがて、海外の「ハゲタカファンド」におカネ全部持っていかれて、資金繰りがショートして倒産の憂き目に遭いました。
売り上げがバブル崩壊とともに頭打ちになったので、なるべく自社の在庫を取り崩すために、松下電器のこたつ、MSX用の専用カード(FS5200F2用)RS-232Cカード、アイワのパソコン通信モデムなどを、社員優待で購入して、売り上げに貢献しました。
18歳、高校出てすぐのバイト先が、第一家庭電器株式会社、DAC(第一家電オーディオセンター)千葉店だったのですよ。あの頃は、A&D(三菱電機)やONKYOや山水電気などのオーデイオコンポーネント商品が、まるでたこ焼きでも買って帰るような勢いで売れてたんですが、バブルが弾けてご覧の通りです。
東洋経済オンラインのように、かつて千葉市街を支えた「千葉セントラルプラザ」内に出来た「第一家庭電器DAC千葉店」です。このセントラルプラザそのものも、2013年に解体工事され、現在では「千葉セントラルタワー」という住居兼店舗がございます。
TTL回路、電源回路、アセンブラ、N88BASIC、FORTRAN77、COBOL80、ANSI Cなどを学びました。芸術科や家庭科を端折った普通科の勉強と同時並行で学ぶものです。当時のイーサネットは、10base-2。 校訓:信義礼譲・自主責任・勤労愛好
情報技術(1・2・3)、実習、工業数理、電気基礎(上)(高圧電力を除く)、電子技術などの授業では、例えば、キルヒホッフの法則(閉回路の電位差の和はゼロ)とか、プログラム実習では、例えば、メモリ領域を管理する、スタック・ヒープ領域などの、POP、PUSH、FIFOなどの概念を学んでおり、ガーベイジコレクション(無駄遣いしているメモリ領域を解放すること)なども学びました。また、コンデンサ・キャパシタ・蓄電池などの充放電特性といった突っ込んだことも、千葉県立千葉工業高等学校・情報技術科ではさせるものですよ。あとは、半導体素子の原理をトランジスタから学んだ、とかですね。
工業高校に欠かせない、計算技術検定という、関数電卓をどこまで使いこなせるか、という試験が、年度末試験に出て来るものでした。とろくさいので、ノロノロしているので、僕は関数電卓はゆっくりと使う派です。
授業を真剣に受けていれば、学年年度末試験があるのです。工業高校では。(以下、Wikipediaより) 「基礎的情報技術に関する、知識と技能が習得されているかを検定する事が目的である。 受験資格は、高等学校在校生・卒業者および受検校が受検を認めた者である。 高等学校では「情報技術基礎」をすべての学科で履修する様になり、情報に関する知識や技術の習得が必須となったため、情報技術検定に関しては科目関係なく受験する傾向にある。」
千葉県印旛郡富里町立富里北中学校。心技体を重んじる学校です。インドの山奥じゃなく、印旛の山奥。野菜とスイカしか獲れないような田舎に出来た、成田市の植民地的ニュータウン。京成成田駅やJR成田駅から都心を目指す通勤客多し。
中学校のとき、コピー同人誌を作ったことがありました。初代「うる星やつら」が流行した、第一次アニメブームの頃でした。学校の壁新聞は小学校の頃から経験はありましたが、メディアの作り方(別冊宝島)を書店で買って来て、その後、新メディアの作り方(同)を買ってきたので、大体心得はあります。
千葉県印旛郡富里村立日吉台小学校。主に、身体をトレーニングさせる学校。
小学校3年生のお勉強。親の勧めで「日能研・たまプラーザ校」に通うが、ストレスで挫折。
まだ小3だったので、母と一緒に渋谷東宝映画館に出掛けて、大音量・大迫力の「初代映画ドラえもん」を見に行ったり、父と一緒に南武線登戸→川崎行きの臨時団体電車「ドラえもん号」(101系6両編成)に乗りに行ったりしました。
当時は、川崎市立中原会館と呼ばれていた施設です。「牧場の子牛」「さあ太陽を呼んで来い」の2曲を、クラス全員で合唱したものです。渋谷先生という音楽の先生が、合唱コンクールに非常に熱心な方でしたので、宮前平小学校代表として出場したものです。
小学校1年と3年は守恒小学校。小学校2年生は、当時の北九州市立企救丘養護学校・小倉記念病院分室。(気管支喘息の公害病認定患者のため)
今でこそ、小2の国語の教科書に出て来るぐらいの名作ですが、1970年代当時は違いました。守恒小学校の図書館で借りた初めての図書は「車のいろは空のいろ」という「松井さん」という気のいいタクシー運転手さんが登場する、不思議なお話だったのです。あれ以来、不思議なもの好きになりました。
主に、どろんこ遊びをしていました。自宅ではレゴ・ブロックで遊ぶ日々。給食旨し。
近所の、現:青葉さわい病院(田園都市線沿線)の院長先生が、まだ爆竹で遊んでいた頃、母に促され「沢井さんと同じお受験塾に通いなさい!」と命じるので、しぶしぶ行きました。勉強大嫌いなのにね。トリッキーな問題(いま思えば、中学校の国語・数学の先取り)ばかりで、小学校3年生の凡人には毎日がつらかったのですが、何とか1年通い、千葉県富里市に越した時には、身体はしんどかったですが、学校の勉強はせずとも出来ていましたね。僕の教育方針をめぐっては、父母同士で対立しており、母が「慶応義塾大学に行きなさい!」と言う一方、父が「憲雄、これからはコンピュータだ!」と違う教育方針でしたので、間に立ってとてもつらかったです。
まあ、普段、あちらの会社で怒っている某上司を、僕が背後から肩をポンと叩いて、クールダウンさせて(おい、表へ出ろやお前w)いるところです(・∀・)ノ