DXのカギは私たち人間の「最も個人的な意思」
※前編「「DX」に抱いた空想と実態のギャップ」
中編「AIへの間違った期待と正体:「DX」を目指す現場の問題」
の続きとなる記事です。
前編・中編を通して、私はDXという言葉に漂う「違和感」の正体を探ってきました。 AIは人間が与えた情報空間の中で、過去のデータから最適解を導き出す「内挿」が得意です。しかし、私たちがDXの名の下に本来求めていた「変革」とは、その枠の外に新たな点を打つ「外挿」であったはずです。
では、この「外挿」を担う人間の役割とは、具体的に何を指すのか。
AIと人間の「情報の捉え方」にある決定的な違いに注目してみます。
1. ハルシネーションと「立ち止まれない」AI
AI(特に生成AI)には、データのない領域を「もっともらしい嘘」で埋めてしまうハルシネーションという特徴があります。これは、AIが「確率的な確からしさ」を計算し続ける仕組みだからです。
AIにとって重要なのは「データの密度」と「整合性」であり、そこに「あれ、この数字は何かがおかしいぞ」と自律的にブレーキをかけ、思考を止める機能は備わっていません。AIはデータの点と点を繋ぐ線形結合が得意すぎるがゆえに、その背後にある矛盾やズレをスルーして、滑らかに出力をし続けてしまうのです。
2. バイアスという名の「高性能センサー」
一方で、人間にはバイアス(偏り)があります。一般に客観性が重視される場面では、バイアスは排除すべきものとされがちです。しかし、視点を変えれば、バイアスとは「特定の対象への強い好奇心や関心」の現れでもあります。
人間は過去の経験から自分なりの基準(デフォルト)を脳内に作り上げています。この基準があるからこそ、パターンがわずかに崩れた瞬間、脳が「あれ?」と反応し、違和感として拾い上げることができるのです。
自分に関心がある情報だけを無意識に選別する「カクテルパーティー効果」のように、この「関心の偏り」があるからこそ、私たちは平穏な日常の中に潜む、わずかな「いつもと違う差分」に気づくことができるのではないでしょうか。
好奇心という名のフィルターを持ち、主観によって情報の優先順位を決められること。これこそが、すべてのデータを均等に処理するAIには不可能な、人間だけの「高性能センサー」なのだと思います。
3. 違和感の根源:認知の密度が描く「拘り」
では、この「違和感」に気づける人と気づけない人の違いはどこにあるのでしょうか。
違和感に気付くプロセスを分解してみると、そこにはその人の「生き方」そのものが反映されているように思います。普段、その人がその人らしく生活し、体験し、人やモノに触れて観察する。そうした積み重ねの中で、一人ひとり異なる「独自の認知」が形成されていきます。
違和感とは、その積み上げられた認知と目の前の事象との間に生じる「差分」であったり、予測や価値観から生じる「ズレ」のようなもの。言い換えると、「認知の密度の立体感」こそが違和感の根源のような気がします。
この密度とは、その人の人生の中で何を感じ、考え、体験してきたのかという「凝縮」です。この密度の形状は人それぞれであり、この歪(いびつ)で固有な形状がその人の「拘り」を表現しているといえそうです。
つまり違和感に気づく力の差は、その人がどのように生きてきたかという「拘り」の違いなのかもしれません。
4. 最後に立ち上がる「意思」の正体
私たちは、さまざまな拘りと付き合って生きています。拘りは周囲からは見えづらい内的な「意思」ではないでしょうか。
社会生活を営む上で、人との関わりの中で内的な意思を表明する場面が迫られ、それが「外的な意思」としてコミュニケーションされる。つまりこの「意思」というものが、人間らしさでありAIを超えて「外挿」を生み出すものではないかと思います。
先日、あるデータサイエンティストが興味深いことを言っていました。「有意差検定をする時点ですでに、その対象群は検定するまでもなく差がほとんどない場合が多い」と。
どちらが良いかは数値よりも意思で既に決まっている。
数値は意思を超えられないのかもしれません。
数値に基づいて優先順位を決めるのは、客観的で正しいように見えます。しかし、そこには潜在的なリスクが隠れていませんか。それは、無意識のうちに「データのせいにできる」という免罪符を生み出しているかもしれません。
数値が出した順位にただ従うのではなく、自分だけの「拘り」が捉えた違和感を信じ、「あえてこちらを選ぶ」と決断する。
これこそが、DXというデジタルの世界において、
人間が果たすべき最も泥臭く、最も個人的な役割なのだと思います。
(完)