ブラックを飲めなかった私が史上最速でスタバのエリアコーヒーマスターになるまで
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目次
ブラックの飲めなかった私がコーヒーマスターに
入社から3か月、突然コーヒーがわかった日
お客様にとってプロであるために、生産地に貢献するために~受験生のように勉強した日々
エリアカップ 選ばれる気はまったくなかった
本当のプロになるためのスタートラインに立った
ブラックの飲めなかった私がコーヒーマスターに
2005年、27歳の時に私は入社8か月でコーヒーマスター(ブラックエプロン)を取得、その数か月後、入社1年未満で東海エリア(当時)のエリアコーヒーマスター(ACM)に選出されました。これは当時の最短記録であり、現在も抜かれていないと聞いています。入社した当初、ブラックコーヒーはまったく飲めなかった私が1年足らずでブラックエプロンを取得し、さらにエリアNo.1であるACMに選ばれる未来は想像もしていませんでした。コーヒー知識ゼロの私がいかにしてその成果を手にしたのかを、ここで語りたいと思います。
入社から3か月、突然コーヒーがわかった日
2005年1月、新店のオープニングスタッフとしてスターバックスに入社しました。先述の通り当時の私はブラックが飲めず、先輩バリスタがコーヒーを淹れてくれても豆による味の違いは全く判りませんでした。浅煎りと深煎りの違いは感じるものの、何を飲んでも「苦い」以外の感想はなく、先輩がソムリエのように豊かな言葉でコーヒーを表現するのを聞きながら、心の中で『この人もほんとはこんなこと感じてないんじゃない?』などと、失礼なことを思っていたものです。
先輩は学習のために毎日毎日コーヒープレスで違うコーヒーを淹れてくれました。マニュアルを開きながらそのコーヒーについて学び、語り合ってからシフトに入るのですが、てんで理解できない日々が続いていたある日。朝出勤すると、その日のバックルームには甘い花の香りが漂っていました。「誰か花を持ってきてくれたの?」そう言いながら奥へ進むと、そこでは先輩がいつものようにコーヒーを淹れていました。その豆は「エチオピア シダモ(現在取り扱い無)」。コーヒーマニュアルに“フローラルでフルーティー”と表現されている豆でした。私が花の香りだと思ったのは、なんと淹れたてのエチオピアシダモの香りだったのです。この瞬間、私の頭には雷が落ちたような衝撃が走りました。まさか本当にコーヒーから花のような香りがするなんて。マニュアルに書かれた特徴を、自分の感覚が初めて捉えた日でした。コーヒーマニュアルを読むとさらに衝撃的な記述がありました。それは、これほどエレガントで高級感のある風味と香りを持つコーヒー豆の産地では識字率が39%、平均寿命は49歳(現在は大幅に改善されています)という内容でした。無知だった私が、コーヒーの魅力と共に、生産地の貧しさについて知った日。この日は私の人生の転機になりました。
お客様にとってプロであるために、生産地に貢献するために~受験生のように勉強した日々
その日から私は、コーヒーを学びます。新店で社員以外コーヒー豆の専門知識を語れるバリスタがおらず、早くお客様に信頼していただけるようになりたかったことが一つ。それと同時に、遥か彼方、でも確かにコーヒーを生産している生産地の人々の情熱を正しくお客様へ届けるために、もっと理解したい。プロフェッショナルになりたい。そんな思いに火が付きました。
今でこそコーヒーマスター試験には社内のテキストがありますが、当時はコーヒーマニュアル以外何もなく、しかも試験範囲の半分はマニュアル外の一般知識から問われるものでした。ネット上にも大した情報がなく、カフェ文化もそこまで広がっていなかった当時、コーヒーを学ぶ手段は限られていました。マニュアルを覚えてしまった後は、図書館でコーヒーの文献を探しました。ところが、見つかったのはたった1冊。内容的にもあまり充実していませんでした。
そこで私は、当時流行していたSNSであるmixiでブラックエプロンを持っているバリスタを探し、個人的に連絡を取りました。どのように勉強したのか知りたかったからです。彼女は西新宿にあるホールビーンストア(豆専門店で現在は閉店)に勤務しており、ぜひ資料をあげたいと申し出てくれました。私はその頃三重県在住でしたが、東京まで出ていくことを迷う理由はありませんでした。新幹線に乗り、一路東京へ。西新宿でブラックエプロンの彼女と会い、過去問や彼女が勉強に使ったノートのコピーをもらうことができました。また、池袋のジュンク堂でコーヒーの専門書を探しました。植物学的な知識からコーヒーの歴史、焙煎の化学まで、田舎では手に入らない書籍を手に入れ、私の胸は躍っていました。
シフトの前も、後も、帰宅後も、お風呂の中でも…どこへ行くにも本を持ち歩き、がむしゃらに勉強しました。毎日のテイスティングも欠かさず、飲んだ感想をメモに書き続けました。そして8月(現在の試験は12月)、論述を含めた記述試験で、私はコーヒーマスターの称号を手にすることとなりました。この頃には、コーヒーを嗅ぎ分け、味の違いを感じられるまでに舌も成長していました。これらの原動力は、ブラックエプロンを手にするためではありませんでした。それはあくまでも象徴であり、カスタマーからいかに信頼される存在になれるか、プロフェッショナルとして幅広い提案ができるようになるか、すべてはそこがゴールでした。
エリアカップ 選ばれる気はまったくなかった
自分の名前が入った黒いエプロン。これがプロの印として目下のゴールだった私にとって、その先にエリアカップという大会があることは寝耳に水でした。エプロンに星の刺繡がたくさん並んだ(コーヒーマスター試験は年に一度あり、合格するたびに星の数が増えていく)諸先輩方の中に混じって自分がそんなたいそうな大会に出るなんて。緊張して縮み上がりましたが、逆に入賞することなどないのだから、この場を思いきり楽しもう。当日にはそんなマインドに変わっていました。予選前半は知識を問われる問題にフリップで回答。これは限定店舗で取り扱う豆の問題も出て、先輩に太刀打ちできずボロボロでした。ところが予選後半のテイスティングでは、豆の香りから回答するもの、テイスティングで回答するものと、なんとたった1人だけ全問正解してしまいました。ニコニコしながら先輩の活躍を眺めているつもりだった私が、まさかの決勝3名に残ってしまったのです。
決勝はパフォーマンスで、審査員は予選敗退したブラックエプロンたちと各ディストリクトのマネージャーとエリアマネージャー。他の候補たちのパフォーマンス中は別室で控え、見ることはできないという平等なやり方でした。店舗を再現されたセットで、豆の販売パフォーマンスを行います。忘れもしない、聞かれたのは妊娠したコーヒー好きの妻がコーヒーを我慢しているが飲めるものはないか、というものでした。ここはディカフェの豆を案内するのが王道ですが、当時日本のスタバで取り扱っていたディカフェは今と違いかなりどっしりとしたコクのあるもののみ。いろいろとヒアリングすると、その豆は奥さん(仮ですが(笑))の好みではありませんでした。そこで、ディカフェの案内をしつつも、お酒も好きであることが分かった奥様に向け、私はシトラスの風味を持つアフリカ産のケニアを案内し、コアントローというリキュールを1、2滴垂らすことを提案しました。カフェインが入っていても1日に1杯程度なら問題がないという理解が一般的であること、コアントローはオレンジリキュールなのでお酒の香りと共にケニアのシトラス感も楽しめること、お酒とコーヒーを我慢している期間も少しだけ贅沢なくつろぎの時間を楽しんでもらえることを説明しました。
結果、まさかの優勝でした。信じられず、茫然と立ち尽くしていました。お客様と生産地のためにプロになりたいと思い始まった私のコーヒージャーニーが、思いもよらないところにたどり着いた日でした。優勝のスピーチで何を話したかはあまりはっきり覚えていません。ただ、涙があとからあとからあふれ、胸がいっぱいだったことだけは忘れられません。「こんな人見たことないよ。入社1年しないでブラックどころかエリアコーヒーマスター?あなたすごいね!!」とエリアマネージャーに声をかけていただいた場面も、昨日のことのように思い出す印象的なものでした。
本当のプロになるためのスタートラインに立った
その後エリア代表として全国9名の中から日本一を決めるアンバサダーカップにも出場し、ACM限定有料コーヒーセミナー開催など様々な活動を行うわけですが、エリアコーヒーマスターに選ばれた瞬間の私は必死でコーヒーを勉強したただの素人でした。経験も浅く、自信もなく、自分の言葉で実感をもって語れる知識はかなり乏しかったと言えます。ですが、私は周囲から見ればエリアでたった1人の特別な存在になってしまったのです。プロであるための努力は待ったなしでした。この立場になったことが、私を否応なしに成長させていきます。“立場が人をつくる”―そのことを私はここから実感するようになっていきました。私の長い長いブラックエプロン人生のはじまりでした。