AIの研修をしていて、いちばんこたえるのは、質問が出ない時間です。
画面の向こうで、皆さんちゃんと手を動かしてくれている。操作も覚えてくれる。それでも、研修が終わって翌週にうかがうと、ほとんど前回のところから進んでいない。
責める気持ちはまったくありません。むしろ、それが普通だと思っています。
今日は、そんな現場で、ある一つの仕組みが通った瞬間に空気がくるっと変わった日の話をさせてください。派手な道具の話ではありません。会議の記録が、そのままAIの記憶になる。それだけの話です。
目次
■ 研修は続いていたのに、手が伸びなかった
顧問として入っているのは、商品を小売店に届ける流通の会社の、少人数のチームです。メーカーさんと小売のバイヤーさんのあいだに立って、商品の企画から在庫、出荷までを回している。打ち合わせの数が、とにかく多い。メーカーさんごと、バイヤーさんごと、社内の会議。電話もある。
研修は回を重ねていました。AIに業務を説明させる、表計算の作業を棚卸しする、情報をAIが読める形に整える。どれも手応えはあったのですが、正直なところ、「で、これが明日の仕事にどう効くんだっけ」という顔が、ずっと消えなかった。
無理もないと思います。AIに何かを聞くためには、まずAIが自社のことを知っていないといけない。でも、自社のことを教える作業は、それ自体が新しい仕事に見える。忙しい人ほど、そこで止まります。
■ 「言った、言わない」が多すぎるんです
その日のテーマは、チャットツールを「記録が残る場所」にすることでした。
自分宛てのチャットをメモ帳代わりにする話をしていたときです。電話で受けた要望を、紙ではなくチャットに残しておけば、あとでAIが参照できる——と説明していたら、メンバーの方がぽつりと言いました。
「そういうのが、多すぎるんですよ」
聞けば、取引先とのやり取りで「それ、前に言いましたよね」「同じことを、もう一回やってますね」が本当に多い、と。別の方も「そうそう」と重ねてくる。
これは、僕が用意した課題ではありません。現場の人が、自分の口で言った滞りです。こういう一言が出た研修は、だいたいその先がうまくいきます。
■ 一本の線が通った瞬間
そこで、会議の話に進みました。
チャネル(話題ごとの部屋)の中から会議を立てて、始まったら録画と文字起こしのボタンを押す。そうすると、会議の文字起こしが、そのチャネルのファイル置き場に自動で残ります。置き場の実体は、会社の共有フォルダです。
ここまでは、機能の説明です。皆さんも「へえ」くらいの顔でした。
空気が変わったのは、その次です。
「この取引先との打ち合わせは、今後ずっとこのチャネルでやる。そうすると、議事録が時系列で溜まっていきます。AIはそれを読めるので、過去の経緯をさかのぼったうえで、今どうなっているか、次に何をするかを答えられるようになります」
一瞬、間があって、「いいですね」という声が出ました。そこからです。
「じゃあ、チャネルは取引先ごとに切ったほうがいいですか、開発の担当ごとですか」。僕が聞く前に、皆さんのほうで設計が始まっていました。メーカーさんの数を数え始める方もいる。以前、長時間の会議を一本で録ったらAIが話を取り違えた、という経験談まで出てきて、「1つの話題に1つの部屋」というルールは、ほぼ皆さんが自分で決めてくれました。
会議の中で、別の方からは「自分の発言が評価に使われるのでは」という心配も出ました。そういう使われ方をする設計ではないことを説明したら、表情がふっと緩んだのを覚えています。不安が一つ消えると、人はすぐ前に出てきます。
新しいことを覚えたわけではありません。普段どおり会議をして、ボタンを一つ押すだけ。それで、AIが自分たちの会社のことを分かっていく。やることは増えないのに、効き目だけが積み上がる。この線が一本通った瞬間に、AIが「覚えなければいけない新しい仕事」から「勝手に賢くなっていく同僚」に見え方が変わったのだと思います。
■ 脳は変化を嫌う。だから小さく「できた」を置く
僕は、AIの導入が止まる理由の多くは、技術ではなく脳のほうにあると考えています。
人にはコンフォートゾーンがあります。慣れたやり方の内側にいるあいだ、脳は安心していられる。新しいやり方は、それがどれだけ便利でも、脳にとってはまず「いつもと違う」という警戒の対象です。だから、少し時間が経つと「自分で手を動かしたほうが早い」に戻っていく。意志の弱さではなく、そういう仕組みなのだと思います。
この壁を、気合いで越えさせようとしても越えません。越えられるのは、小さくても「できた」「効いた」を一度、体で感じたときです。一度その感覚を味わうと、脳はその行動を「またやりたいもの」として覚える。次の一歩が軽くなる。
僕は高校時代、クリスティアーノ・ロナウドのトレーニングを真似して毎日を過ごしていました。才能より積み重ねで世界の頂点に立った人です。劇的な変化は、たいてい小さな成功の積み重ねの、結果のほうです。
今回の研修で起きたことも、たぶんこれでした。機能を十個覚えるより、「会議をするだけで、AIがうちを分かっていく」という一つの実感のほうが、はるかに強い。そしてその実感が、「言った、言わない」という自分たちの困りごとと、まっすぐにつながっていた。
■ コンフォートゾーンは、壊すものではなく広げるもの
「コンフォートゾーンを出よう」という言い方があります。僕は少し違う捉え方をしています。
出るのではなく、新しいやり方のほうを、コンフォートゾーンの内側に入れてしまう。会議のたびにボタンを押すことが当たり前になれば、それはもう変化ではなく、いつものやり方です。その状態になって初めて、AIは「定着した」と言えるのだと思います。
そのために僕がやっているのは、最初の一歩をできるだけ小さくすることです。今回で言えば、皆さんにお願いしたのは三つだけでした。取引先ごとのチャネルを作ること、自分宛てのチャットにメモを入れ始めること、共有フォルダを自分の画面に出しておくこと。仕組みの側の細かい設定は、こちらで引き受けます。
覚えてもらうのではなく、いつもの仕事の中に、効く仕掛けを置いておく。研修というより、流れの整備に近い仕事です。
翌週、チャネルの一覧を開くと、取引先ごとの部屋が並び始めていました。まだ始まったばかりです。議事録が溜まって、AIが本当に経緯を踏まえて答えられるようになるのは、これからです。
それでも、あの「いいですね」の一言で、何かの向きが変わったのは確かでした。
御社で、AIがまだ定着していないとしたら。足りないのは研修の回数ではなく、一度の「効いた」とその先のつながりが見えたときかもしれません。その一回は、たいてい、皆さんが毎日すでにやっている仕事のすぐ隣にあります。
※ ご相談は、正社員としての転職ではなく、業務委託・技術顧問という形を前提にお受けしています。