さまざまな企業と取引して思うのは、変な指針みたいなのがないほうが、のびのびと仕事をしている人が多いなということ。
先日、「うちはこういうのを掲げてみんなに守ってもらっている」と自慢げに見せられた資料を読んで、思うところがあったので書いてみようと思う。
これまで色々な現場を渡り歩いてきて、気づけばどこへ行っても最終的に「仕組み」を整える役回りになっていた。システム開発、Web運用、EC運営、総務、PM補佐、業務改善——業種はバラバラでも、やってることの本質はだいたい同じだったと思う。
そういう立場で色んな会社の「行動指針」や「基準値」を見てきたからこそ、今日はそのメリットとデメリットについて書いてみる。
基準がないと、頑張る方向がわからない。 「何をどこまでやれば評価されるのか」が曖昧なまま働くのは、実はかなりのストレスだと思う。
指針や基準値があると、
- 評価軸が言語化されて、属人的な判断のブレが減る
- 新しく入った人でも「今どのレベルにいて、次に何を目指せばいいか」がわかる
- 現場ごとにバラバラだったやり方が、ある程度標準化される
組織を大きくしていく上では、ほぼ必須のプロセスだと思う。仕組みがない組織は、結局「その人がいなくなったら回らない」状態から抜け出せない。
一方で、基準値というのは一度できると独り歩きを始める。
これには「グッドハートの法則」という名前がついている。1975年にイギリスの経済学者が提唱した考え方で、要するに「指標が目標になった瞬間、その指標は良い指標でなくなる」というやつだ。テストの点数を上げることが目的化すると本当の学力が置き去りになるのと同じで、社内の基準値も「満たすこと自体」が目的にすり替わっていく。数字に表れる部分だけが最適化されて、数字に表れない工夫や、基準の外側にあった良い動きは静かに評価から外れていく。
こうなると、基準値はもう成長のための道具じゃなくなる。従うべき絶対のルールとして一人歩きを始めて、達成できているかどうかで人が値踏みされる。向上心を後押しするはずだったものが、いつの間にか人を縛る呪縛に変わっている。
厄介なのは、この呪縛が「マニュアル」や「ルール」という言葉を避けることで、むしろ強化されるケースがあることだ。「これは決まりじゃなくて理念だ」「規則じゃなくて人としての在り方だ」——そう言い換えた瞬間、基準は形式上の拘束力を失う代わりに、もっと厄介な精神的拘束力を帯びる。ルールなら守れない理由を交渉できるけど、「理念」や「当たり前」と定義されたものに対しては、達していないこと自体が人格の欠如みたいに扱われてしまう。「当たり前のことができていない」と言われて言い返せる人はそう多くない。基準値が「当たり前」という言葉とセットになった瞬間、それはもう指針じゃなくて、反論そのものを封じる装置になる。
指針や基準値そのものが悪いわけじゃない。 問題は、それが誰かを縛る呪縛になってしまうことだ。
厄介なのは、呪縛をかけている側——たいてい経営層——には、それが呪縛だという自覚がないこと。基準値があれば「決めた通りにやっている」という説明が立つし、評価に迷ったときも基準のせいにできる。つまり基準値は、社員だけじゃなくて作った本人をも守るためのものでもある。自分の判断を守る盾として機能している限り、その裏で誰かの裁量や納得感が削られていっても気づかれにくい。
そして、こういう経営者ほど、基準値を「社員を切る口実」として使いやすい。本人が悪いのではなく、基準値が定めた水準に達していないだけ——という体で、実質的な排除を正当化する材料にしてしまう。判断しているのは自分なのに、責任の所在は基準値の方に押し付けられる。基準値がある限り、その決定はいつでも「客観的で正しいもの」として処理できてしまうのだ。
向上心を後押しするための基準が、いつのまにか人を縛る呪縛になっていないか。 仕組みを作る側にいる人間として、常に自分に問い続けたい問いだと思う。
あと、これは余談だけど、経営者の自己啓発病もこじらせるとけっこうやばい。自分が本で読んだり誰かに言われて感銘を受けたことを、そのまま組織の基準値に翻訳して社員に課してしまう。本人は良かれと思ってやっているだけに、誰も止められない。