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【代表インタビュー 前編】いつも背中を追いかけていた父親の死。そこから、起業へのストーリーが始まる

こんにちは! Attackの志摩です。今回と次回はAttack代表・村上 篤志(むらかみ あつし)のインタビューをお届けします。前編では、村上の生い立ちや学生時代の挫折、会社員時代の葛藤、そして起業に至るまでの経緯をインタビュー。ぜひ最後までお読みいただけると嬉しいです!

大学4年生で、進路は白紙。周囲への対抗心から猛勉強し、早稲田大学大学院へ入学を果たす

――幼少期はどのように過ごしていましたか?

父親の仕事の影響で、幼稚園から小学校低学年までは東京と仙台を行き来するような生活を送っていました。東京で生まれてすぐに仙台に引っ越し、その後すぐに東京に戻り、さらに幼稚園の年中から小学校3年生までは仙台に住んでいました。それ以降はずっと東京に住んでいますが、両親ともに東京出身で、田舎らしい田舎がない自分にとって、仙台はちょっとした故郷ですね。

小学生の頃はサッカーチームに所属し、ゴールキーパーをしていました。今でもそうですが、自分が先頭を切ってゴールを決めていくような「攻め」よりも、失点を防ぐ「守り」の方が自分の性に合っているんです。中学生の頃は学級委員を務め、初めてみんなをまとめる役割も経験しました。高校入試では、学区内で1番偏差値の高い高校を目指したのですが、内申点が足りず、受けることができませんでした。今、振り返るとそれが人生で初めての挫折経験で、自分にとってコンプレックスの原点かもしれません。また、中学ではサッカー部に入りたかったのですが、サッカー部がなかったので新設されたばかりのバドミントン部を選びました。現在もそうなのですが、目上の立場の人がいる環境に居心地の悪さを感じるんです。振り返ると、アルバイトも新規オープンのファミレスやカラオケ店などを選んでいました。会社を立ち上げたのも、そのような心理が理由の一つなのかもしれません。高校では念願のサッカー部に入ったのですが、膝を痛めてしまい、バドミントン部に入り直しました。部長を務めさせてもらったのですが、中学生で学級委員になったときも含め、率先してその立場になったわけではなく、いつの間にかリーダーを任されている、という感じでした。高校時代のバドミントン部の仲間に、今の会社の仕事を手伝ってもらっていて、そういった意味でも自分にとって貴重な財産ですね。

――大学以降はどのような道を歩みましたか?

私は幼少期から父親のことを尊敬していて、よくキャリアの話を聞いていたこともあり、父親と同じ慶應義塾大学を選びました。高校1年生の時、指定校推薦枠に慶應義塾大学があることを知ってからは、指定校推薦の大きな判断基準となる定期テストに注力しました。一般入試で入学するには自分の学力は足りないと思ったのと、必死に受験勉強するより指定校推薦の方が合格しやすいと思ったんです(苦笑)。

無事に慶應義塾大学に入学することができましたが、受験勉強をしていなかった分、入学当初は勉強についていくのが大変でしたね。大学の研究室では、ワークフローの研究を選択し、具体的にはメールの添付ファイルを追跡することで、散らばった業務を管理して、業務フローを効率化させるシステムを開発していました。現在、弊社では採用管理システムを開発しているのですが、大学時代の研究はその源泉とも言えます。

ただ、研究室では順風満帆な毎日ではありませんでした。研究室には大学院生やドクターも居たのですが、目上の人たちと上手く人間関係が築けず、劣等感や嫌悪感を抱いていたんです。周囲がほとんど大学院に進学するので、流されるように大学院進学を選んだのですが、成績が良くなかったので大学院の推薦が貰えず、大学院入試にも落ちてしまい、卒業2ヶ月前のになっても進路が未定の状態でした。このままではフリーターになるしかないという状況でしたが、たままたその年は大学院の入試が2回あったので、冬の試験を受験することにしました。周囲に対する劣等感やコンプレックスをバネにして、高校時代よりも勉強をし、なんとか合格することができました。ただ、研究室での人間関係がうまくいっていなかったこともあり、このまま残りたくないという気持ちもあったので、早稲田大学の情報系の専門大学院も同時に受験し、最終的にはそちらに進学しました。

最愛の父親を亡くした。もがきながらも、自分のキャリアを見出していく

――大学院での印象的な出来事を教えてください

父親がレコード会社に勤めていて、日頃から仕事の楽しさを話してくれていたので、私もメディア関連のことを学びたいと思い、大学院では音楽配信ビジネスについて研究しました。自分も父親と似たような道を進もうと思っていた矢先、大学院1年生の時に父親が亡くなったんです。特に学生時代に大きな選択をする時は、いつも父親の顔が浮かんでいましたし、自分のキャリアの道しるべでもあった存在を失い、大きなショックを受けました。また、父親が亡くなる直前に「死ぬよりも会社で嫌なことが何倍もあった」と、言葉を遺したんです。その言葉が強烈に印象に残っていて、なんとなく“会社員”に対して漠然とした不信感を抱くようになりました。

――ファーストキャリアではどのような道を選びましたか?

それでも父親の後を追うように、メディア系の会社を中心に就職活動を行い、最終的にはご縁のあったテレビ朝日に入社しました。テレビ局はかなり自由度が高く、若いうちから裁量権のある仕事をさせてくれるのですが、私も新入社員時代に予算1億円ほどの広告プランニングを任されました。有難い気持ちはありながらも、業務ノウハウやナレッジ共有が不足していて、本当に四苦八苦しました。この時の苦しかった経験がトラウマとなり現在、弊社では可能な限りノウハウやナレッジを提供した上で、責任のある仕事を任せるよう意識しています。仕事内容自体は楽しかったのですが、パフォーマンスを発揮することができず、モヤモヤした毎日を送っていましたね。今振り返ると、社会人1年目はそんなものだと思うのですが、変なプライドが邪魔をして「他の会社だったらパフォーマンスを発揮できるはず」と他責的に考え、逃げるように転職活動を始めました。

パフォーマンスを発揮できない。その理由は“会社員”という働き方にあった

――どのような会社に転職したのでしょうか?

学生時代の専攻や研究室で慣れ親しんでいたIT業界なら活躍できると考え、当時急成長を遂げていたYahoo!JAPANに転職しました。IT業界で実務経験がない私に、いきなり企画から任せてくれるなどやりがいを感じました。ただ、結局は「他責的」に環境を変えるためだけに転職したようなものだったので、仕事に対する腹括りやコミットが薄く、やはりYahoo!JAPANでもあまり価値のある仕事はできませんでしたね。テレビ朝日とYahoo!JAPANという業種も風土も歴史も違う2つの会社で、いずれも仕事において価値を発揮できないのは、さすがに環境ではなく自分に原因があると感じるようになりました。ただ、それでもまだ他責的に考えたい自分がいて、自分の課題に向き合わなければいけない現実と理想的な自分像との間で葛藤を感じていました。同時に働き方や人間関係についても深く考えていた時、3社目となるリンクアンドモチベーションに出会い、転職を決めました。当時既に29歳で結婚したばかりだったこともあり、「この会社でも成果を出せなかったら、自分のキャリアは終わりだ」と、ようやく目の前の仕事に腹を括って向き合うことができました。その結果、何とか入社3年ほどで社内MVPを獲得し、子会社の事業責任者を任せてもらえるほどになりました。ただ、それでも上司に対しての心理的な障壁が大きく、結局は会社が期待するほどの活躍はできませんでした。このままでは周囲に迷惑を掛けてしまうと思い、また転職しても同じようなことになるだけと悟り、独立することを決めました。リンクアンドモチベーションは退職後にも仕事をくださって、その懐の深さに本当に感謝しています。

――最初に立ち上げた事業について教えてください

最初は友人と2人で会社を立ち上げ、人材紹介業に取り組みました。ただ、友人なので気は合うものの、仕事に対する考え方や価値観がすれ違い、結局はうまくいきませんでした。その後、1人で会社を経営することになり、最初は『Career Wake』という代表インタビューを掲載した転職サイトを運営し始めたのですが、収益化に苦戦して、グロースさせることができませんでした。ただ、『Career Wake』の営業を通じて、「採用業務を手伝ってほしい」というお客様のニーズを感じ、現在の事業であるスタートアップ・ベンチャー企業に特化した採用支援事業【TARGET】を開始することになりました。そういった意味では、『Career Wake』も意味のある事業だったと思います。

いかがでしたでしょうか? 学生時代は様々な葛藤を抱きながらも、少しずつ自分なりのキャリアを切り拓いていった村上。後編では現在の事業【TARGET】に至った経緯や、会社としての今後のビジョン、候補者の方へのメッセージなどをお届けします。次回もお楽しみに!

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