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サツドラヒストリー~創業から10年目~

※ こちらの記事はサツドラHD公式noteより転載したものとなります。

サツドラHD公式note
本ページにお越しいただきありがとうございます! サツドラHD公式note編集部です。 この記事では、既にこのnoteを読んで頂いている方にも、はじめましての方にも、サツドラHD公式noteで発信している情報をご案内いたします。 はじめにこのサツドラHD公式noteでは、 サツドラホールディングスグループのヒト・モノ・コトについてと、 そこに込められた想いについてお届けしています。 ...
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みなさんこんにちは!サツドラHD公式note編集部です。

サツドラの50年の歩みを振り返る「サツドラヒストリー」。
前回はダイジェスト版を記事と動画でお送りいたしました。

本日はサッポロドラッグストアーの創業者である富山睦浩会長と富山光惠副会長に、創業~10年目を振り返っていただいたインタビューの内容をお届けします!

薬屋を始めることにしたきっかけ

―薬屋さんになろうと思ったきっかけは何かあったのでしょうか。

富山睦浩会長(以下会長):
私は根室出身なのですが、子どもの頃、北洋遠洋漁業に向かう船団が、薬やドリンクを大量に積んで行ったりしていたのを見ていました。薬は根室の町の薬屋から入れおり、大量購入される様子を見て、「薬屋さんは繁盛しそうな商売だな~」と子どもながらに感じましたね。
さらに、当時母親が病気で市内の病院に通っていたのですが症状が良くならず、通院で治らないので近くの薬局に行って薬を貰ったところ、症状が良くなったことがあり、とても感謝していました。そのような姿を見て薬屋さんは面白いと思ったんですよね。当時はチェーンストアなどは考えていませんでしたが、根室の薬屋が繁盛していたこともあり薬屋をやろうと中学の時から思っていました。

富山会長 青年時代

私は6人兄弟の一番下で、兄二人は家を継いで漁師になりました。私は家を継ぐ必要がありませんでしたので、薬屋になるための勉強がしたく札幌の北海高校に入学し、担当の先生に「私でも入れる薬科大学はないの?」と尋ね、私は東京の昭和大学(旧昭和医科大学)を受験し、無事入学することができました。昭和大学のある東京で4年間大学生活を送り、北海道に戻って来てそこからです。

―最初から独立して会社を建てたのではなく、お勤めされていたのですよね?

会長:最初は、今は無き山形薬業という問屋で1年半勤めました。そのあと初めて小売りの店舗として、当時4店舗ぐらいを生協さんのインショップでやっていたウロコ薬局と言うお店があり、そこで1年半勤めました。

副会長との出会い、結婚

―そのような経験を経て、その後独立されたのですね。
独立するタイミングと、副会長と結婚されたのはどんなタイミングでどういう風に起業しようと思ったのですか?

会長:私は昔から旅が好きで、放浪の旅じゃないけど中学の頃から旅行が大好きでした。昔からヨーロッパに行きたいと思っていたのですが、社会人の時にヨーロッパ鉄道で1ケ月乗り放題のパスが、当時のお金で5万か6万くらいで国外で販売しており、それを利用してヨーロッパに行くことにしました。その旅では横浜から船に乗ってロシアのナホトカに行って、それからシベリア鉄道に乗ってロシアに入って飛行機でスウェーデンに入り、1ケ月間放浪の旅をしたんですよ。
そのヨーロッパ旅行を決めた時、海外に行くなら英語ぐらいは覚えておかないとと思い、札幌の市民講座、カルチャーセンターで英会話を習いました。その時にいたのが今の女房(副会長)です。彼女も英会話を習いに来ていて、そこで出会って結婚しました。

結婚式の様子

―そうなのですね!素敵な出会いですね。
お付き合いされてご結婚されて、それから1ケ月後に1号店の手稲店をオープンされているのですが(!)、この辺りはどのように?

会長:まさにタイミングですね。もともと独立して商売をやりたいと思っていたところに、当時ウロコ薬局に出入りしていた医療機器の会社の営業マンからスーパーの新店が出来ると情報をもらったんです。150坪で今では小さなタイプのスーパーですが、そこでインショップで薬屋さんをやってみないかと話がきました。場所は手稲山口でしたが、市営住宅もある住宅街の中だったので、やってみたい!と思い、店舗を出店しました。

ーそのお話を聞いた時、副会長はお勤めになったのですか?どんな状況で独立する話を聞きましたか?

富山光惠副会長(以下副会長):
お付き合いをしていた当初から、結婚にあたって「将来は独立したい」という夢をもっていて、その時にはお手伝いしてくれな、と言われ一緒になりました。11月5日に結婚式を終え、自分の荷物を新居に運ぶ車の中で初めて12月に店舗を出す場所がもう決まっていると聞いたんです。
それは天地がひっくり返るような感じでしたけど、乗りかかった船だからいくしかない、やれるところまで突き抜けるしかないと思いました。
私自身、昔から始めたからには精一杯やる性格だったので、荷物を運んで整理するのもそこそこにして修業にいきました。

実は私、もともと薬嫌いだったんです。薬嫌いと言うか、薬はなるべく飲まないほうが良い、自然に治す、と言うのが根底にあったんです。薬屋なんて昔あまり入ることはありませんでした。よほどでないと薬は飲まない。なので、薬屋自体がそもそもどう言うものなのかがわからず…
それで会長のお友達で、しばらくうちの調剤薬局にも来ていただいていた方が経営していた「さかもと薬局」というところに修行に行き、手稲店のオープン間際まで毎日通いました。そこで薬局と言うのはどう言うものかなど、色んな基本を教えてもらい、そして12月25日のクリスマスに手稲店がオープンして、その時からせわしなく月日が流れていきました。
もともと私もじっとしていないタイプですから、そのせわしさに重なるようにして、せわしい毎日をずっと駆け抜けてきている感じでしたね。

―新婚生活=サツドラの始まりだったのですね・・・!

副会長:そうですね、もう店舗では重要な労働力として働いていました。私たち自身がいなければ店を開けられないので、そこから店頭に立つ毎日がスタートしました。

1972年、ついに1号店の手稲店がオープン

―そんなバタバタな中、新婚ではありましたし、オープンした時の気持ちはどうでしたか?

第1号店の手稲店(1972年オープン)

開店日には多くのお客さまの行列ができました

会長:オープン当時は問屋も裕福で、商品を仕入れても売れたら払えればいいというような感じでした。スーパーの中のインショップですから、ショーケースと棚があればよくて、2~300万くらいで店舗をオープンすることができました。ただ、スーパーは休みがなく、店舗を開けている時は必ずその場に居なくてはいけないので、年中無休で店頭に立ち続けました。
私は薬を売って、副会長は化粧品・・・今でこそカネボウさん、コーセーさんなど多くのメーカーの商品を店舗で販売していますが、当時は資生堂化粧品しか販売できないようになっており、資生堂の「花椿」という資生堂化粧品の愛用者の会に入会して、資生堂化粧品を販売していました。

―小さい時から薬屋さんになりたいと思っていて、おそらく独立志向もあったと思うのですが、自分のお店を構えた時、どのような気持ちでしたか?

会長:正直、やれるかな、と思いました。お客さんもそんなにたくさん来るわけでもないし、チラシを手書きのようなもので作って、近くの住宅街に撒いて集客を行いました。
当時の薬屋さんは、必ず自分の名前を屋号に付けてるのが一般的で、私は「富山とみやま」だから富山薬局、富山薬房、富山薬店というのを付けるのが普通だったのですが、富山とやまの配置薬のイメージがあるからこれは付けられなかったんです。
札幌で有名になりたい想いがあり、薬屋を辞書で調べてみると「ドラッグストア」と載っていたことから、少し長いけど「サッポロドラックストアー」という名前にしました。
当時は、「ドラッグストア」といってもなんのことを示すか誰も知らないし、店名として名前で付けているところもありませんでした。いつも「何屋さんですか?サッポロトラックさんですか?」とか聞かれてましたね。

ドラックストアはどういうものかというと、本来アメリカでドラッグストアはウォルグリーンという300坪くらいの大きな薬屋の事を指します。

アメリカの最大薬局チェーン「ウォルグリーン」

小さいドラッグストアは「ファーマシー」が正式な言い方らしいのですが、当時は知らなくて、あとでアメリカに行って初めて知りました。

―もし会長が当時知っていたら、「サッポロファーマシー」という名前になっていたかもしれなかったのですね!
オープンまでもそうですし、オープンした後もバタバタでしたけど、副会長はどんな感じで働かれていましたか?当時寝られていたのでしょうか・・・?

副会長:寝ないと生きてけないので、寝てはいました。(笑)
当時資生堂さんにやっと頼み込んで、急に置かせてもらったのですが、元々化粧品販売の知識があったわけではなく、セミナーなども受けたことが無かったので、当初はただ化粧品をずらっと並べただけのオープンになりました。当時、分厚い「販売ブック」というものがあって、それを横に眺めながら販売し、ある商品全部を一つひとつ勉強しながら販売しました。忙しいわけでも、お客さんがどんどん来るわけでもなかったのですが、来ていただくのは全部地域の人ですから、地域のお客さまに感謝しながら、いかに来店していただけるか考えていました。

会長:1972年に行われた札幌オリンピックに伴い、1976年に地下鉄東西線ができることになり、2店舗目の話が舞い込みました。

1972年開催 札幌オリンピック

その当時はまだ砂利道で舗装もしていなかったのですが、西28丁目駅の出口の予定地の向かいにたまたま不動産屋さんがあり、そこに貸店舗がないかと頼みに行ったら、問い合わせをしてから1ケ月後くらいに電話が来て、「今一階でやっている不動産屋を、自宅兼店舗事務所にして二階に移すので一階を貸せますよ」という連絡が入り、1階の15坪くらいの場所を借りて2店舗目となる円山店をオープンさせました。

第2号店となる円山店(1973年オープン)

その時初めて薬剤師を雇ったのですが、オープン当初お客さまが店舗に全然来なくて、ほとんど売れなかったんです。当時雇った薬剤師の方が勉強熱心だったので、暇な時間はいつも勉強していたので、お客さまが来ないときでも精神的に耐えられましたね。僕一人なら耐えられず、途中で店舗を閉めていたのではないかと思います。

円山店をオープンしてから3年後、ずっと待っていた地下鉄の出口ができて、円山店の近くの地下鉄の出口がたまたまバスターミナルにくっついた出口だったので、暇な時が嘘だったかのように、一番乗降客が多くすごく繁盛しました。

―当然ですが全てが手探りで、初めてのことがずっと続いていったのですね。

会長:3店舗目をオープンしたときには苦い思い出があります。当時は薬局と薬局の間が150m以上離れていなければいけないという距離制限があり、たまたま土地があったので保健所に行って、150m以内に薬屋やっているところがあるかどうか聞いたら、ないから富山さん買いなさいと言われました。しかし2~3週間後に150m以内に別の薬屋さんが土地を買っていると聞き、保健所にどうしたら良いか聞に行ったら、早くオープンした方が勝ちだと言われました。たまたまその買おうと思っている土地の横に商店があったので、場所を5坪貸してくれと頼み、ミカン箱みたいなのを並べて、図面を書いて保健所に持って行って許可を得て休業届を出すと、保健所から受け付けないといわれて薬種商協会と、私と薬業組合と会談を何回かやりました。

業界の幹部が出てきて、富山さんあなたは二店舗持っているから100万~150万くらいのお金で降りてくれないか?と言われたので、降りることにしたんです。12月くらいに決まって、4月の末に支払うからと言われて、ずいぶん長いなと。その日に支払いのお金貰うかなと行ったら、「富山さん新聞見ましたか?」と言われ、なんと距離制限がなくなったことを知ったんです。当時広島の薬局が距離制限は違法だと、商売の自由に反すると国を相手に訴えたのが勝って、距離制限が撤廃されたんです。たぶん4月に判決が下りる事を業界の人は知っていたんだと思うんですよね。私は業界紙などを取ってなかったのでそんな情報もなくて、なんで支払いが4月なのかも知りませんでした。お金はくれるのですか?と聞いたらお金は払いません、どうぞ自由にやってくださいと言われた。やられた・・・と思いましたね。業界紙を取ってない、情報がないとどうなるか思い知らされました。それからは業界紙を取るようにしています。これは1977年にオープンした3店舗目の北光店の時の出来事です。

店舗と子育ての両立

―そんな中、時系列で行くと富山社長が生まれ、子育てもスタートしますよね。

副会長:そうですね、1976年、手稲店オープンから四年後に母になりました。当時薬局には1店舗ごとに薬剤師の免許が必要だったのですが、薬剤師の資格を持つのは会長と当時雇っていた薬剤師の方の2人のみ。私は薬剤師ではなかったので、店舗を増やすためにも薬種商をすぐに勉強しました。3年間の実務経験が必要で、店舗をオープンして3年、勉強して薬種商に受かった。それと同時に息子(富山社長)を授かりました。息子が生まれる日も、生まれた後すぐにも1号店の手稲店に毎日通っていましたね。

息子を外に出せるようになってからお店の奥にベビーベッドを置いて、息子に熱があろうが何をしようが具合が悪くても…まずはお店を開けるのに毎日連れて行っていました。

そこでずっと過ごして、1978年に太平店ができてから家も太平に引っ越して来ました。当時あまり保育園がなくて、大変でも傍に置いた方が良いのだろうと思い保育園には入れずに、4歳の時古い自宅に越してくるまでずっと店で一緒に過ごしていました。

―店舗が遊び場でもあるし、商売の場でもあったのですね。

副会長:そうですね。昔は交通量も激しくなくて、店の前の広場の駐車場やその裏を三輪車でボロボロになるまで遊んでいましたね。

―その後も店舗が少しずつ増え、1982年無事に10周年を迎え、店舗数も8店舗まで増えました。当時は10年目を迎えてどうでしたか?

1978年にオープンした太平店での様子

1980年、すすきのにオープンしたラッキー薬局

会長:当時50人くらいの社員の方がいました。一緒に取り組んでくれた従業員や、家族がいて、なんとか10周年を迎えることができました。当時では10周年というまだまだ日数でいうと少ない感じでしたが、業界の人たちや従業員を呼んで、祝賀会のパーティーをみんなで行ったのがよい思い出です。

――次回11年目~20年目のヒストリーに続きます。

最後までお読みいただきありがとうございました!
次回のヒストリーをお楽しみに。

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