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上海生まれ、日本育ち。15歳でカナダ。そして再び日本を選んだ。

話を聞いたらおもしろそう。AIベンチャーのABEJAには、そう思わせる人たちがいます。

今回はABEJAでエンジニアをしているファン・イーミン・オリバー(Huang Yumin Oliver)さん。

上海で生まれ、9歳から日本へ。大好きになった日本を突然離れ、15歳からカナダのバンクーバーへ。そしていま、再び日本。

どうやってここまで来たんですか?


父が突然「カナダへ行く」と言い出して

オリバー:「出身どこですか?」とよく聞かれます。「国籍カナダで、生まれは上海、育ちは日本」と言ってます。

僕が2歳の時から両親は数学の研究者として日本で暮らしていて、僕は9歳まで上海で祖父母に育てられました。その後、両親と暮らすために9歳の時に日本に渡りました。

日本では大阪市で2年過ごし、それから埼玉県入間市に引っ越しました。
小学校の先生は日中辞書を買って、僕の気持ちを同級生たちにつないでくれました。

自分の失敗談を語ってくれる先生や生活面を指導してくれる先生もいて。日本の学校は生徒の教師の距離が近いんですよね。「ここまでしてくれるんだ」と、日本が大好きになりました。

でも、中学を卒業する寸前、カナダのバンクーバーに移住することになってしまいました。

—日本の高校に行くつもりだった?

もちろん。自分で高校受験の仕組みも調べて、日本の受験は“内申点”が大事だと知ったんです。「そういう評価があるなら積み上げないとね」と、生徒会の書記、サッカー部のキャプテン、ボランティアにも手を挙げました。

中学3年生の秋、内申もほぼ固めたし「塾に入ろうかな」って考えていた矢先に、父が急に「再来月からカナダに住むぞ」と言い出した。

父はエンジニアとしてどうしても北米に行きたかったんです。

—お父さんに対して腹立たしく思わなかった?

いろいろ思いました。「またか」と(笑)。
日本語を必死で覚えたのに、またゼロベースから言葉を覚えなきゃいけないのか、と。正直しんどかった。

ただ、カナダでは高校まで義務教育なので、子どもながら「受験せずに済む」と少し思いましたけど。


移住してわかった衝撃の事実

—バンクーバーだと日本人も多いのでは?

移り住んだのは中国からの移民が多く暮らす地域で、中高3000人の学校に日本人は1人だけでした。でも日本語話す相手がいなくても、中国語使えばいいや、と思ってたんです。家族とは中国語で会話してきたし、なんとかいけるかな、と。

そしたら……僕がしゃべっていたのは、実は「中国語」ではなかったんですよ。

ーどういうことですか?

「上海語」だったんです。中国語は、標準語(北京語)、広東語、上海語など、地域で話し方が全然違います。僕の両親は上海出身だから家では上海語を話す。周りに中国語を話す人がいなかったから、僕は上海語が「中国語」だと思い込んでたんです。

—少しは通じません?

いや、まったく通じません。中国の義務教育はいま小学校から全て北京語を使うようになっているから若い世代は上海語は話さなくなっている。この感覚、日本で例えるなら、沖縄のお年寄りが話す方言を県外の人が聞く感じ。何言っているかわからない。

唯一きちんと話せた日本語は、周りに話せる人がいない。
頭の中はぐちゃぐちゃで、僕は一体、なんなんだって思いました。

—15歳ですよね。

最初の1年ぐらいは本当にきつかったですね。
言葉が一切通じないから友達もできなくて、孤立しました。

—アイデンティティが確立する時期に環境がガラッと変わって「自分は何者なんだ?」という不安はありました?

ありました。自分がどこの国のカテゴリにも属していないことへの不安。当時は日本人、中国人、カナダ人のどれかに「属さなきゃいけない」と思ってましたから。

反抗期真っただ中で、両親も忙しそうで「頼っても仕方ないんだろうな」と思っていた。今思えば、頼ればよかった。でも、それができない年頃でした。

あとこの年頃は、学校に居場所となるグループがありますよね。そこで仲間と過ごすうち、自分もこうなるだろう、と思う「ロールモデル」に出会ったり、そこから漠然と進路のイメージも浮かんでくる。

それが一気になくなったんです。あと3年で成人という時期に。あのとき僕は、自分がどこに立ってるのか、コンパスをいったん失くしました。

ここでグレてもおかしくないんですが、日本料理店でバイトをはじめたんです。

—なぜ日本料理店で?

英語も中国語も話せないから、選択肢がそれしかなかった(笑)。

「自分で稼ぐ。お小遣いもいらない」と、高校に通いながら週4-6日、働きはじめました。皿洗いからスタートして、キッチンの揚げ場(天ぷらを揚げる担当)をやって、そのあと別の店でキッチン全般を任されました。魚をさばき、寿司も握ってました。


ハンデが武器に変わった

大学時代のアルバイトは、カナダのプリペイド専門モバイル回線「chatr」のセールスをしてました。ショッピングモールの中のカウンターブースに週2日くらい入って、通話プランを売っていました。契約のインセンティブも入るから結構稼げるんですよ。

その頃には、中国語・英語・日本語の3カ国語をなんとか話せるようになってました。家族以外に使えなかった上海語がかえって強みとして使えるようになったんです。

僕の父親より上の年代は上海語を話せるんです。いろんなところで意思決定できるポジションにつく世代でもあります。たとえば上海地域からの留学生をバーッと引率していた男性が携帯電話を買いに来たことがあって、上海語で話しかけたら、一気に距離が縮まり、まとめて買ってくれました。

—生き抜くために必死に覚えた言語が武器になった、と。

なりましたね(笑)。

「○○人」という縛りが解けて、「自分が持ってるものを、この世界でどう使っていこうか」という考えにシフトできたのも大学生になってからです。もともと尖った形のピースなのだから、無理やりパズルの枠に当てはめる必要はないなと思って。ここで初めて、自由を手に入れたのかもしれません。

バンクーバーには24歳までいました。大学の卒業を控えていた時期、「ボストンキャリアフォーラム」というアメリカのバイリンガル向け就職イベントに行ったら、サイバーエージェントが出展していました。

ソーシャルメディアやゲームといった、複数のプロダクトを扱っている、と聞いて、「ビュッフェ」みたいだなと。好きな料理を選べる、あれです。技術者としていろんないろんなものを扱えそうだし、自分が何かやりたければ、事業を生み出す制度だってある。魅力的でした。

当時mixiが流行っていて、日本企業はゲームやメディア、SNSのサービスを作るのが上手だと思ってました。いつか日本のアイデアやデザインを北米に持ち帰れたら、と。

中学の卒業寸前という、中途半端な時期にカナダに来てしまったという気持ちも残っていて。

で、9年ぶりに日本で暮らすことにしました。

—サイバーエージェント、どうでした?

5年ほどいました。大学で勉強したのはハードウェアだったし、サービス開発や「商品を作った」先の経験もなかった。だから、サイバーでソフトウェア開発に取り組んだのはとても新鮮で面白かったです。

とんでもないミスをしてしまったこともあります。夜中に大事なデータを消してしまって。

真っ青になった僕に、当時の上司は怒ることなく「オリバー、やったことはしょうがない」と、対策を考えてくれました。「失敗しても怒るのではなく、その先を考える」と教えてもらった経験です。


「できあがっていく組織」を経験したい

ーでもそこから転職を考えるんですよね。

サイバーはとてもいい会社です。メガベンチャーで新しいことに取り組めるチャンスもあって、ストラクチャーがしっかりしている。

でも30歳が見えてきたころ「自分、これでいいのかな?」と、ちょっと思ってしまった。「できあがっていく組織」も、ナマで経験したくなって。

ABEJAとは、以前LinkedIn経由で人事担当者からメッセージをいただいたことが今につながりました。もらった当時は転職するつもりがなくて返信すらしませんでしたが。

もやもやし始めた時期に「そういえばABEJAからメッセージが来ていたな」と見返しました。すると同じ人事担当から、もう1回ダイレクトメールが来た(笑)。

—なんというタイミング。神様がいる(笑)。

ABEJAのエンジニアたちが書くTech Blogを読んで、会社の存在は気にはなってたんですよ。

ABEJAは、すでにAIモデルを作るための開発基盤(プラットフォーム)を開発している。これからAIが社会のあちこちで使われるようになれば、もしかしたら「ドミナント」(市場占有)を取れるかもしれない。

そのとき、プレイヤーとして自分はそこにいたいし、その動きを加速させたいと思って。AIの知識は全然なかったですけど入社しました。

—とはいえ、躊躇しませんでした?

ゼロからやること自体は、まったく怖くないです。背中を押したものがあったとしたら「30歳になる」ということくらいですかね(苦笑)。

「ABEJAではリサーチャーも営業に行くんですよ」と言われて「ほう、面白いな」と思いました。営業が顧客から要望や要件だけ取ってきて「後はエンジニアにどうにかしてもらう」という、よくある流れではない。営業も開発も研究者も本当に事業を提案しています。

カオスに行きたいとABEJAに飛び込んで、ちょうどいま1年がたちました。ビジネスも開発も試行錯誤しながら続けてきて、いまちょうどいい仲間とチームを組めたところです。

また違う「ビュッフェ」を、ここで味わってます(笑)。

(2019年夏の合宿で=撮影:Y.OOHASHI)


Huang Yumin Oliver 中国上海生まれ。9歳の時に来日、15歳まで日本に暮らした後、カナダ・バンクーバーへ。ブリティッシュコロンビア州立サイモンフレーザー大学でコンピュータエンジニアリングを専攻、卒業後「サイバーエージェント」に入社。内定段階から人事評価システム「Geppo」の開発やAbemaTVの立ち上げに関わった他、ホームページ制作のプラットフォーム「AmebaOwnd」のシステムの管理者などを経験。2018年12月にABEJA入社、ABEJA Platformの開発を経て新規事業の開発マネジャーを務める。

取材:錦光山雅子、神山かおり 構成:川崎絵美 写真:神山かおり、Y.OOHASHI

(2019年12月18日掲載のTorusより転載)

上海生まれ、日本育ち。15歳でカナダ。そして再び日本を選んだ。|テクプレたちの日常 by ABEJA
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https://torus.abejainc.com/n/nbb2572c3deca
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