閉じない人材育成について
正解を教え込むのではなく、問い続けられる人を育てる
前回は、閉じない発信について書いた。
何を見せ、何を見せないのか。
福祉色を前面に出しすぎず、でも理念は隠さないこと。
利用者さんの尊厳を守りながら、山の畑の空気や、仕事の意味や、社会企業としての姿勢を外へ伝えていくこと。
そんなことを書いた。
発信は、種まきに似ている。
すぐに芽が出るわけではないけれど、言葉を置いておくことで、いつか誰かが見つけてくれることがある。
その誰かが、地域の人かもしれない。
関係機関の人かもしれない。
未来の仲間かもしれない。
だから今回は、人材育成について考えてみたい。
閉じない事業者であるためには、閉じない人が必要だ。
これは、当たり前のようで、とても難しい。
事業所がどれだけ立派な理念を掲げても、どれだけ仕組みを整えても、そこで働く人たちのまなざしが閉じていれば、現場はやっぱり閉じていく。
逆に、仕組みがまだ不十分でも、働く人たちが問い続けられるなら、現場は少しずつ開いていく。
では、閉じない人材とは何だろう。
知識がある人。
資格がある人。
経験がある人。
もちろん、それらは大切だ。
福祉の仕事には専門性がいる。制度の理解も必要だ。障害特性の知識も必要だ。
記録も、計画も、リスク管理も、コミュニケーションも、学ぶべきことはたくさんある。
でも、それだけでは足りない。
知識があるからこそ、閉じてしまうこともある。
経験があるからこそ、決めつけてしまうこともある。
「ああ、このケースはこういう感じね」
「この人はこういうタイプだね」
「前にも似たようなことがあったから」
そうやって、知っていることの中に相手をしまい込んでしまう。
もちろん、経験は大事だ。
パターンを知っているからこそ、早く気づけることもある。
危険を避けられることもある。
見通しを立てられることもある。
でも、経験は使い方を間違えると、人を見るための道具ではなく、人を決めるための枠になってしまう。
僕はそこが少し怖い。
だから、閉じない人材育成とは、単に正解を教え込むことではないと思っている。
むしろ、
正解に閉じない人を育てること
なのかもしれない。
支援の現場には、正解のように見えるものがたくさんある。
マニュアル。支援手順。障害特性の説明。ケース会議で決まった方針。過去の成功体験。
もちろん、それらは必要だ。
何もないところから毎回考えていたら、現場は回らない。
でも、正解らしきものを持った瞬間に、目の前の人が見えなくなることがある。
昨日うまくいった支援が、今日もうまくいくとは限らない。
Aさんに合った関わりが、Bさんに合うとは限らない。
同じ人でも、午前と午後で違うことがある。
季節や天気や人間関係や家庭の状況で、見え方が変わることもある。
だから支援者は、
知っていることを持ちながら、知らない人として出会い直す
必要があるのだと思う。これは、とても難しい。
知識を捨てるわけではない。経験を否定するわけでもない。でも、それを絶対にしない。
「かもしれない」を持つ。
この人は、こういう人かもしれない。
でも、違うかもしれない。
この支援は合っているかもしれない。
でも、今は違うかもしれない。
今日は動けないように見える。でも、環境が変われば動けるかもしれない。
嫌がっているように見える。でも、言葉にならない不安があるだけかもしれない。
そうやって、決めつける前に少し立ち止まれること。
それが、閉じない支援者の大切な力なのだと思う。
僕たちは、職員に「正解」を渡したくなる。
こういう時は、こうしてください。この人には、こう関わってください。この作業は、この手順で進めてください。
もちろん、必要な場面はある。
新人職員に何も伝えず、「自分で考えて」と言うのは無責任だ。安全面や基本的な手順は、きちんと伝えなければならない。
ただ、それだけでは人は育たない。
マニュアル通りに動ける人は育つかもしれない。でも、問い続けられる人は育たない。
現場では、マニュアルに載っていないことばかり起きる。
予定通りにいかない。
利用者さんの様子がいつもと違う。受託業務が急に入る。逆に仕事がなくなる。
雨で畑に出られない。職員が足りない。お店に地域の人が来る。誰かが不安定になる。
そういう時に必要なのは、決められた正解をなぞる力だけではない。
何が起きているのかを見る力。
何を優先するのか考える力。
誰に相談するのか判断する力。
今できる小さな工夫を見つける力。
そして、あとから振り返る力。
そういう力を育てたい。
山の畑では、よく「場を見る」ということを大切にしている。
問題を個人の中に閉じない。
誰が悪いかで終わらせない。
何が起きているのか。
どんな環境だったのか。
どんな関係性があったのか。
見通しは足りていたか。
選択肢は見えていたか。
作業の難易度は合っていたか。
職員の声かけはどうだったか。
そうやって、少し引いて見る。これは簡単なようで、案外難しい。
現場では、目の前の出来事に引っ張られる。困った行動があると、その人の問題に見える。うまくいかないと、その人のやる気の問題に見える。
でも、本当にそうだろうか。
その人だけの問題なのか。
場の組み方に何かあったのかもしれない。
説明がわかりにくかったのかもしれない。
座る場所が合わなかったのかもしれない。
作業の終わりが見えなかったのかもしれない。
職員の焦りが伝わっていたのかもしれない。
そう考えるだけで、支援は少し変わる。
人を責めるより、場を変えてみる。
性格を変えようとするより、環境を調整してみる。
やる気を出させようとするより、入り口を変えてみる。
そこに、閉じない人材育成のひとつの柱がある気がしている。
もうひとつ大切なのは、職員自身も「育つ存在」だと考えることだ。
福祉の現場では、支援者はつい「支える側」に立ち続けてしまう。
利用者さんを支える。
家族に説明する。
関係機関と調整する。
現場を回す。
記録を書く。
そうやって、いつも支える側にいる。でも、支援者だって揺れる。
迷う。
疲れる。
焦る。
決めつけることもある。
感情的になることもある。
うまくいかない支援を、本人のせいにしたくなる日もある。
だからこそ、職員もまた、閉じない環境の中で育つ必要がある。
失敗を責めるだけでは、人は育たない。
もちろん、重大なミスや不適切な対応を曖昧にしていいわけではない。
そこはきちんと向き合う必要がある。
でも、失敗をただ叱責するだけでは、職員は防衛的になる。
怒られないために動くようになる。
本音を言わなくなる。
困ったことを隠すようになる。
そうなると、現場は閉じていく。
だから、人材育成でも大事なのは、
責めるより、問い直すこと なのだと思う。
何が起きたのか。なぜそう判断したのか。ほかに選択肢はあったか。次に同じような場面があったらどうするか。そのために、事業所として何を整えるか。
個人の反省だけで終わらせない。
場の学びに変える。
これができると、失敗も少し意味を持つ。
もちろん、痛みはある。
悔しさもある。
でも、その経験が次の支援につながるなら、ただの失敗ではなくなる。
僕たちは、職員にも「主体性の回復」が必要なのかもしれない。
上から言われたからやる。マニュアルにあるからやる。怒られないようにやる。
それだけでは、支援者自身も自分の仕事の主人公でいられない。
何のためにこの支援をするのか。この活動はどこにつながっているのか。自分はこの場で何を見ているのか。何を大切にしたいのか。
そう考えながら働けること。
自分の言葉で支援を語れること。
それが、職員の主体性なのだと思う。
もちろん、全員が最初からそうできるわけではない。
むしろ、できなくて当然だ。
だから育成がある。
ただし、その育成は一方的な教育ではない。
教える人と教えられる人。上司と部下。経験者と新人。そういう関係はある。
でも、それだけではなく、一緒に問い続ける関係でありたい。
僕自身も、正解を持っているわけではない。むしろ、迷ってばかりだ。
制度のこと。
支援のこと。
経営のこと。
地域との関係。
発信の仕方。
人員配置。
活動設計。
考えなければならないことは多い。それでも、問い続けたい。
そして、一緒に問い続けられる人と働きたい。
「こうすればいいですか」と答えだけを求めるのではなく、
「何が起きているんでしょうね」
「この人にとって何が意味になるんでしょうね」
「この活動はどこにつながるんでしょうね」
そんなふうに、一緒に考えられる人。
それが、山の畑で一緒に働きたい人なのかもしれない。
閉じない人材育成には、対話が必要だ。
ただの業務連絡ではなく、意味を共有する対話。
ただの反省会ではなく、次の実践につながる対話。
ただの指導ではなく、見方が広がる対話。
朝の共有。
夕方の振り返り。
ケースの話し合い。
活動後のちょっとした雑談。
記録に残された一文。
そういうものの中で、人は少しずつ育っていく。
「この人、今日は表情が違いましたね」
「もしかすると、作業の終わりが見えなかったのかもしれません」
「この声かけは入りやすかったみたいです」
「次は選択肢を二つにしてみましょうか」
そういう小さな会話が、支援者のまなざしを育てる。
立派な研修だけが人材育成ではない。
もちろん研修も大事だ。
制度や障害特性や権利擁護や虐待防止や感染症対策や、学ぶべきことはたくさんある。
でも、日々の現場の中で、どんな問いを持てるか。
それをどう言葉にするか。どう共有するか。そこにこそ、人材育成の本体がある気がしている。
僕たちはいま、テクノロジーの力を借りながら、実践知を少しずつ蓄積しようとしている。
これは職員育成にもつながる。
現場で起きたことを、ただの経験で終わらせない。
言葉にする。
記録する。
あとから見返す。
別の職員が読む。
また現場で試す。
そうやって、個人の経験が、事業所の知恵になっていく。
ベテランの勘だけに頼らない。
新人の気づきを流さない。
誰か一人の頭の中に閉じ込めない。
支援の知恵を、少しずつ共有財産にしていく。これも、閉じない人材育成だと思う。
ただし、ここでも仕組みに閉じないようにしたい。
研修を受けたから育った。
記録を書いたから学んだ。
会議をしたから共有できた。 そんなふうに形だけで安心しない。
研修は、現場の見方を変えているか。
記録は、次の支援につながっているか。
会議は、本当に対話になっているか。
職員は、自分の言葉で考えられるようになっているか。
そこを問い続ける必要がある。
人材育成も、手段の目的化が起きやすい。
研修計画をつくること。
実施記録を残すこと。
評価項目を整えること。
面談をすること。どれもどれも大切だ。
でも、それ自体が目的になってしまうと、やっぱり人は見えなくなる。
本来の目的は、閉じない支援者を育てること。
もっと言えば、
世のため、人のために、自分の仕事を問い続けられる人を育てること
なのだと思う。
これは、簡単ではない。
時間がかかる。すぐには結果が見えない。効率も悪いかもしれない。
でも、人が育つというのは、そもそもそういうものなのだと思う。
畑と似ている。種をまいたからといって、すぐに実がなるわけではない。
水をやりすぎてもいけない。放っておいてもいけない。日当たりを見て、土を見て、季節を見て、時々手を入れて、時々待つ。
職員育成も、きっと同じだ。
教える。
任せる。
見守る。
一緒に振り返る。
時には止める。
時には背中を押す。
その繰り返しの中で、少しずつ根が張っていく。
山の畑という名前の通り、僕たちは人も場も育てているのかもしれない。
利用者さんだけではない。
職員も育つ。
事業所も育つ。
地域との関係も育つ。
そして、それぞれがつながって、ひろがっていく。
閉じない人材育成とは、たぶん、そういう循環を信じることだ。
正解を詰め込むのではなく、問いを育てる。決めつける人ではなく、見立てを更新できる人を育てる。
人を管理する人ではなく、場を整えられる人を育てる。
支援する側に固定されるのではなく、自分自身も学び続ける人を育てる。
そして、働く人自身が、自分の仕事の意味を感じられる場をつくる。
それができたら、支援は少し変わると思う。
利用者さんを見る目が変わる。
活動の組み方が変わる。
記録の言葉が変わる。
地域との関係も変わる。
そして、その変化はまた、場全体にひろがっていく。
閉じない事業者であるためには、閉じない人が必要だ。でも、閉じない人は、最初からいるわけではない。閉じない場の中で、少しずつ育っていく。
問いを持ち、対話し、記録し、振り返り、また現場に戻る。その繰り返しの中で、支援者自身もまた育っていく。
僕たちは、そういう人材育成をしていきたい。
まだまだ途中だ。
うまくいくことばかりではない。伝え方に迷うこともある。任せ方に迷うこともある。
待てずに口を出しすぎることもある。逆に、任せすぎてしまうこともある。
でも、その迷いごと含めて、育成なのだと思う。
今日もまた、誰かの小さな気づきがある。
誰かの小さな失敗がある。
誰かの小さな問いがある。
それを責めて終わらせず、流して終わらせず、次の実践へつなげていく。
閉じない人材育成は、そこから始まる。
半径5kmの中で。土の上で。お店の棚の前で。記録の言葉の中で。
職員同士の対話の中で。利用者さんの小さな変化に気づくまなざしの中で。
僕たちは、閉じない支援者を育てる練習を続けている。
そして、たぶん僕自身も、その途中にいる。
※次回は、「閉じない事業者論⑨」として、閉じない経営について考えてみたい。支援、労務、収益、地域、制度。その全部を対立させず、どう相互作用させていくのか。社会企業としての経営のあり方を、もう少し考えてみたい。