「椎茸農家で、日本一を目指す。」
秋田県八峰町。
日本海に面した人口6,000人ほどの町で、そんな目標を掲げている会社があります。
それが、レンチナス奥羽伊勢株式会社。
そしてその代表を務めているのが伊勢隼人です。
今でこそ「日本一」という言葉を迷いなく口にする伊勢ですが、最初からそんな志を持っていたわけではありません。
むしろ若い頃の自分を振り返ると、「正直、そこまで大きな覚悟を持って仕事をしていたわけじゃなかった」と笑います。
では、なぜ今「椎茸農家で日本一」を目指すようになったのか。
その原点は、家族の歴史と、いくつもの挫折の中にありました。
貧しさの中から始まった創業
レンチナスの創業は1979年。
伊勢の父と、地元の仲間5人が国の補助金を活用して立ち上げました。
当時始めたのは椎茸ではなく、「平茸」というきのこ栽培。
しかもその規模は、当時としては東北最大級だったといいます。
この挑戦の背景には、伊勢家の歴史がありました。
伊勢の祖父は50歳ほどで亡くなり、父は母子家庭で育ちました。
当時、家には田んぼも少なく、生活は決して楽ではありませんでした。
高校卒業後、父は出稼ぎに出て働き、その中で出会ったのが、「きのこ栽培」という新しい産業。
設備投資は当時で約1億円。
今では想像もつかないほどの大きな挑戦です。
創業当初、事業は順調で、平茸はよく売れ、会社の景気も良かった。
父からは「車をキャッシュで買っていた時代だった」という話を聞くこともあるそうです。
しかしその順風満帆な時代は、長くは続きませんでした。
市場の変化と事業の崩壊
平茸栽培は次第に難しくなっていきます。菌の病気が発生し、生産が安定しない。
さらに市場では新しいきのこ「ぶなしめじ」が人気になり、平茸の需要は急激に減少しました。
かつて100g100円以上で売れていた平茸は、最終的には100g10円まで価格が落ち込んだといいます。
経営は厳しくなり、創業メンバーも次々と離れていった。
気づけば、経営を続けていたのはわずか2人。
会社は大きな転換を迫られていました。
家業に入るつもりはなかった
そんな会社に関わることになるのが、現在の社長の伊勢隼人でした。
高校卒業後、秋田市で働いていた伊勢。
地元に戻ったのは、家業を継ぐためではありません。
「地元で仕事を探そうと思って帰ってきただけでした。」
しかし帰郷後、父からこんな話を聞きます。
「椎茸やってみようと思うんだよな」
話を聞くうちに、どこか自分にも手伝ってほしいように感じたといいます。
現場の棚づくりを手伝いながら父と話す日々。
そして気づけば「じゃあやるか」そんな流れで、椎茸栽培を始めることになりました。
伊勢は振り返ります。
「今思うと、父に引き抜かれたみたいな感じですね。笑」
若い頃の、正直な仕事観
ただ、当時の伊勢に強い使命感があったわけではありません。
仕事は慣れてくると、完全にルーティン化していました。
決められた作業をこなし、仕事を終える。
そんな日常の繰り返しです。
毎日「早く仕事を終わらせたい。」その一心で仕事に精を出していた伊勢。
理由はシンプルでした。
「早く終わらせてパチンコに行きたい。笑」
実は父もパチンコ好きで、
仕事が終わると一緒に行くこともあったそうです。
今振り返ると、かなりのんびりした時代だったと笑います。
今はもうしばらく行っていないし行きたいとも思わないらしい。
椎茸栽培の壁
平茸事業の厳しい状況を受け、会社は椎茸栽培へと舵を切ります。
しかし椎茸は、平茸とはまったく違う作物でした。
椎茸が思うように生えてこない。
栽培方法も分からない。
資金も限界に近く、親戚からお金を借りることもあったといいます。
それでも試行錯誤を続ける中で、少しずつ栽培のコツが見えてきました。
「ようやく軌道に乗ってきたかもしれない。」
そう思い始めた矢先、会社を揺るがす出来事が起こります。
この出来事は、伊勢隼人の人生を大きく変えることになります。
(この話はまた別の記事で詳しく紹介します。)
椎茸農家で日本一へ
現在、レンチナスは椎茸栽培を中心に事業を展開しています。
そして伊勢が掲げる目標は明確です。
椎茸農家で日本一。
ただし、それは単に生産量の話ではありません。
圧倒的なビジネスモデルをつくり、農業という産業をもっと面白くする。
そして何より、みんなで成功を分かち合える会社をつくりたい。
それが、伊勢の今の想いです。
秋田県八峰町という小さな町から、椎茸農家で日本一へ。
レンチナスの挑戦は、まだ始まったばかりです。
最後に
レンチナスでは現在、この挑戦を一緒に進めてくれる仲間を探しています。
・農業に興味がある
・地方で新しい挑戦をしてみたい
・一次産業をビジネスとして成長させたい
そんな方は、ぜひ一度お話ししましょう。