【小説】置き去りにされた夏
『置き去りにされた夏』 埃交じりの重苦しく纏わりつく湿度が淀んだ色で空を覆いつくす八月、メラメラと焔立つアスファルトの上を、今にも死にそうなアブラゼミが一匹、縋るように手足を差し出し、歩いておりました。アブラゼミは、もう何日も水分という水分を身体に含むことができておらず、カラカラになったその身を携え、恵の水を探していました。 (もうきっと自分の命は長くない) どこかでそう予感しながら、アブラゼミは必死に水を求めました。 そうしてアブラゼミが歩いていると、突然彼をべったりと覆う影ができました。黒い影は、そのうち醜く薄汚れた毛玉に姿を変えました。毛玉には黒い三日月が浮かぶ目玉がふたつ、よだれを垂らしながら薄く笑う口がひとつ、ついておりました。 「どこに行くんだい」 目玉がアブラゼミを囲うようにぎょろりと見つめます。 「暑さに耐えきれず、水を探しているところです」 「ほう」 毛玉の口元から、ちらりと先のとがった歯が顔をのぞかせます。 「それならいいところがあるよ。一緒にくるといい」 毛玉が歩き出すと、アブラゼミをそれまで覆っていた影も同時に移動しました。アブラゼミは、水を飲むことができるのならと、身体の奥底から力を絞り出して、懸命に影について行きました。 影はしばらくして停止すると、ぐるぐるとアブラゼミのまわりをうろつきはじめました。 「ほうら、ついた。存分に水を味わうがいい」 「ありがとうございます」 アブラゼミは、夢にまで見た水の揺らぎと冷たさとを感じとると、身体のすべてを満たすように、無我夢中で水を飲み始めました。 次の瞬間。 後ろからざくりと、鋭いものがアブラゼミを襲いました。アブラゼミは、自分の身に危険がせまっていることを感じ取ると、一心不乱に飛び立ちました。飛び立つとき、ぱさりと音がして、四枚あるうちの翅が一枚、抜け落ちました。 「チっ」 下からもの凄い形相で、毛玉がアブラゼミを睨んでいました。どうやら食べられそうになったところを、すんでのところで逃げることができたようでした。 アブラゼミは、しばらくふらふらと蛇行して飛行すると、茂みのなかに姿を隠しました。 (ここならきっと、誰も来ないだろう) アブラゼミは、青々と茂った草の一筋につかまると、先程の疲れと、久しぶりに潤った自分の身に満足して、眠りにつきました。 どれくらい経ったでしょう。アブラゼミは、何者かの絡みつくような息の音で目を醒ましました。視界がぼやけていることに気付いたアブラゼミは、必死に目をこすります。 「よぉ、目が醒めたのかい」 声が真上で聞こえます。 アブラゼミがその方向へ目をやると、口からちりちりと管のようなものを出し、細い目で嬉しそうにこちらを見ている三角形の顔がありました。その顔から長い長い腕が伸びており、それはアブラゼミの目の真横で止まっていました。 「あなたは誰ですか」 アブラゼミは、冷や汗が湧き出てくるのを不思議に思いながら尋ねます。 「俺かあ」 声は、さも面白くてしかたがないというように、イヒヒと息を吸いながら笑うと、 「俺はなあ、ここら辺にずっとひとりで住んでる、さみしい男だよ」 と答えました。 「僕も生まれてからずっと一人です。お揃いですね」 アブラゼミが微笑みかけると、声の主はしばらく表情を動かさず、それからふと我に返ったように、うす気味悪い笑みを浮かべました。 「そうだなあ、おそろいだなあ」 そしてニタアっと口を真横に開くと、 「たまにはこういうのも乙なもんだあ」 と、長い腕の先についている鎌のような手を、ぷすりとアブラゼミの目に刺しました。突然の耐えがたい痛みに、アブラゼミは激しく身体を揺らして暴れると、運よく茂みから、彼を捕えていた手から這い出ることができました。声はそれ以上追ってはきませんでした。 鼓膜に先程の湿って粘ついた声が貼り付いています。 (地上ではだめだ、高いところへ行こう) アブラゼミはガタガタになりかろうじて光を感じられるだけになった目を頼りに、上へ上へと昇っていきます。身体がひどく重くなっているのがわかり、アブラゼミは、また翅を落としてしまったのだと悟りました。それでも気力だけで上へ上へと昇っていき、そこで平らな地面に着地しました。平らな地面は日光に照らされ、とても熱くなっています。ふと前方をみると、暗く、日影がある気配がしました。アブラゼミはそちらを目指して、手足をぷるぷる震わせながら、のそりのそりと歩を進めました。 日影に入ると、今まで自分がいたどこよりも涼しく、快適に思われました。アブラゼミは、どうせ死ぬのならここを最期の地にしようと決意しました。そうして長いこと爪をひっかけてぶら下がっていると、傷つきジンジンと痛みを帯びた身体が不規則にどくどく言っているのがわかり、アブラゼミは目を閉じ、静かにそのときを待ちました。 そんなとき、突如けたたましい音が鳴りました。何事かと思いを巡らせているうちに、周りが白い靄のようなものに包まれ、その刹那、アブラゼミは自分の身体の痺れるのを感じました。うまく息も吸えません。 「苦しい」 アブラゼミは、ぽとりと地面に落ちると、まるでこの世の不条理すべてに怒りをぶつけるかのように、命の導火線をかみちぎるかのように、翅を懸命に動かし、びちびちと辺り一面を飛び回ると、光の方向に向かい、何度も何度もその身を叩きつけました。 するといつのまにか、アブラゼミは眩しい光のなか、風のなかにいました。翅をもう一枚失ってしまったようで、もうほとんど飛ぶことはできませんでした。 アブラゼミは今にも死んでしまうことを感じ取ると、息も絶え絶えに樹液を求めて歩き回りました。最期に腹を満たしてから、この生を終えたかったのです。アブラゼミは少しの間彷徨うと、樹液の匂いをすぐそばに感知しました。よたよたと覚束ない足取りで、樹液を目指します。 そのときでした。 黒い影がばさり、と音をたてたかと思うと、アブラゼミの身体は大きなくちばしによって天空に攫われ、見えなくなりました。 上空から風にあそばれるように、くるりくるりと茶色い翅が円を描いて舞い落ちました。 地面に落ちたその翅を、灼けつくような蝉の声のなか、陽炎だけがじっと見詰めていました。