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<Y’sの歴史> 第一章 Y’sができるまで

こんにちは、株式会社Y’s 代表取締役の米田龍平です。

株式会社Y’sは、2011年に設立し2020年には10周年という節目を迎えます。
売り上げは6億を超え、正社員は70名近く在籍、「本質を見抜く、想像を超える」という理念を元に、今まで成長し続けて参りました。

一見聞こえはいいですが、設立当初から今に至るまでには山あり谷ありの連続でした。
その都度、社員みんなと協力し乗り越え、ここまでやってこれました。

もっと社会に貢献すべく、そしてまだまだ高みを目指していくために、多くのクライアントの皆様、Y’sに入社したいと考えてくださる方々、Y’sの作品に興味を持ってくださるファンの方々、スタッフのみんなとそのご家族のご協力が必要不可欠です。

少しでもY’sのことを知っていただくために、ブログとしてY’sの歴史を書かせていただくことになりました。僕の拙い文章になりますが、ぜひご一読いただければ幸いです。

ブログ第1弾はY’s設立に至るまでのお話です。
つまり、ほぼ僕の話になります。どんな人間が会社の代表をやっているのか?
そんな話がメインになりますが、少々お付き合いいただければ幸いです。

第一章 Y’sができるまで

普段は代表という立場よりも現場でアートディレクターとして仕事をしていることが多く、デザインの監修およびデザイナーの教育が主な僕の仕事です。

趣味は何ですか?と聞かれれば、「仕事」ですと答えるような性格です。
負けず嫌い、妥協も嫌い、何事もやればできると思っているAB型のポジティブ人間です。

仕事は先手先手がモットーで真面目に頑張っています。
納期も遅れた事はありませんし、時間厳守です。
ですが、外に出れば必ず落し物をします。
そのため普段はカバンも財布も持っていません。手ぶらで出社し手ぶらで帰宅します。

僕の一番大変な仕事といえば社員のニックネームをつけるという仕事です。
今まで100人以上の社員のニックネームをつけてきましたが毎度プレッシャーとの戦いです。

今年は満を辞して、日本を代表するクリエイティブな会社を作るべく制作部門のチーフにカムバックし、マーケティングやその分析、動画演出や制作などサービスラインナップを広げるため様々なことにチャレンジしています。

そんな僕ですが、根底にある想いはアニメや漫画など日本のカルチャーに貢献したい、クールジャパンと言われるブランド戦略に関わりたいという気持ちがとても強いです。

Photo:濱谷幸江


そんな想いを抱いているのも、子供の頃の影響が大きいです。
1983年、愛知県安城市というところで生まれ、ごくごく自然な家庭で育ちました。

小さい頃からアニメや映画を観ることが大好きで、中学生の頃に観た「攻殻機動隊SAC」の影響で、いつか東京に行って働けばそういうことに関われるかなとエンタメの仕事に夢を抱くようになりました。そして、大学受験で何とか東京に行くことが決まり上京という夢が叶いました。
毎日、バイトと飲み会ばかりのキャンパスライフ、そして大学4年では特に就活に興味がなくなっており、大学院に進学することに決めました。

すっかり思い描いていた自分とかけ離れていく日々でしたが転機が訪れたのは大学4年生の終わり頃でした。自分の卒業研究をパワポで資料化するにあたり、数字や化学記号だらけの研究内容をA4100枚くらいにまとめなくてはならない作業がありました。周りの学生たちはとても苦戦する中、僕はその作業がとても楽しく、その結果、大した研究ではありませんでしたが、デザインだけはとても高い評価を受けました。

そのまま、大学院で半年ほど研究を行なっていく中で、やはり研究するよりも資料を作ることが楽しいという気持ちが大きくなり、そういうことだけをやる仕事ってないのだろうかと考え、ネットで検索をしているとグラフィックデザイナーという仕事があるということを知りました。

そこからは、どうしてもその勉強がしたい気持ちが強くなり、月〜金は大学院、土日は専門学校へ行きました。休みなく半年間続けている中で、自分の気持ちが徐々に大学院ではなくデザインする方へ傾いていきました。そこで、23歳になったのをきっかけに、思い切って大学院を辞め専門学校一本でデザインの道に進むことを決めました。

当時は勉強すればデザイナーになれるという甘い考えを持っており、毎日ひらすらにポートフォリオを作ることに没頭しました。

そして、ここからの1年間は本当に地獄でした。
半年くらいの勉強だけでは、どのデザイン事務所も募集すらしておらず、スタート地点にも立てない日々が続きました。ましてや、僕のやりたかったエンタメに関われる事務所の募集はごくわずかで、あの手この手で工夫を凝らし潜り込もうとするのですがことごとく落ち続け、気持ちは折れ、デザイナーを諦めようと考えていました。

そんなとき、一つの連絡を受けました。

CGWORLDという雑誌の当時副編集長の沼倉さんという方から雑誌の特集ページのイラストを担当してほしいという仕事の話が来たんです。
勉強の傍、趣味でコンポジットという画像を合成して作るイラストをネットに公開していたのを沼倉さんがご覧になり、僕を起用しようと考えてくれたのです。そして完成したイラストが使用されている雑誌が店頭に並んでいるのを見て、やはりデザインの道に進もうと決心しました。

そう感じていたころに、一度落ちてしまった会社からもう一度面談の連絡があり入社することができました。

それから2年半、必死にデザイナーとして昼夜関係なく働き続けました。

当時僕が入った会社はアートディレクターが5人ほどいて、映画やアニメなどのエンタメ系のデザインを一人複数案件担当していました。僕も在籍時には多くの作品に関わらせていただいきました。

3年目に入った時、体調を崩してしまうことが増え、一度働き方を変えてみようと思うようになりました。そしてそれと同時に、単純に自分の名前で仕事をもらえることができればこの働き方でなくても良いのではないかと欲が出始めました。つまりは独立してみたかったということですね。

これは僕の持論ですが、何事も100%準備万端で次の段階には進むことはないと思います。
考えたらきりが無い、だから大切なのは覚悟を決めて勇気ある一歩を踏み出せるかどうかだと思います。まず挑戦してみることが何よりも大切だと思っています。当時26歳だった僕はもし失敗してもまだ取り戻せる時間はたっぷりある、そう思える持ち前のポジティブさもありました。

今思えば、デザイナーになるまでにかなり苦戦したこと、デザイナーになって2年半、死ぬほど働き努力したことが今の僕の基盤になっており、これらがなければ今のY’sは無いと思います。

働き方改革で根性論の時代は終わりを告げようとしていますが、僕の時代はまだ、そういった先人たちのアドバイスが多くあり、そういう人生に憧れた部分も大きくあったと思います。

と、会社を辞めて思い切って独立し、株式会社Y’sの設立に参画することになったわけですが、やはりここからも辛い日々が一年ほど続きました。一緒に立ち上げたメンバーが一人辞め、二人辞め、仕事がない、お金もない、何をやっていいかわからない。もう辞めようかなと考える日々が続きました。
自前のポジティブさも影を潜め始めた頃、一人の営業マンがY’sを手伝うことになりました。
その名は「中館博貴」。

新たなメンバー、Y’sの現副社長である中館の入社をきっかけに事は大きく動き出します!

次回、「第二章 Y’s創業期〜成長期」お楽しみに。

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